怠惰への讃歌

不景気なお話(ばかり)で失礼いたします。
失業4ヶ月、半月後くらいから始まった給付も次が最後。
さらに不景気な話で、働きたくない。考えたくない。なんて、あと数日は言っていたい、という程度ですので許してください。
ああ、4ヶ月遊んでいたのだから、許されはしないのか。


mixyの、マイミクシイの方の、といってももっぱらROMで日記を読ませていただいている方の日記で、「疾風」なんて飛行機があったらしい事を知り、なぜかぼんやりと、戦時中はどんなだったのか、どんな気持ちで人々は暮らしていたのか、と考える。少し想像するが、像は結ばない。


韓国では全国民を対象に精神疾患の検診を実施するという。あちらでは精神疾患は市民権を得たのだろうか。こちらのネットでかいま見る、メンヘラ、なんていう言葉でレッテルを貼られてしまわないのだろうか。と考える。そういうわけはないだろうな。検査の結果が公表されはしないだろうと思うが、どう対応するのだろう。自殺率がOECD加盟国の中でワーストだというが、日本はどんなものなのだろう。とにかく対策をとらないよりはマクロ的にはいいのか。


だらだらしていたいというようなことを口に出すと、それを聞いた人がにわかに目の色を変え、やんわりとだったり、毅然としたり、非難されることが多い。やんわりであってもむしろ目の色の違いが際だつばかりだ。
そのたびに、その言われた内容はわかっているのだけれどなあ、と、げんなりしてしまう。私が普段エラそうだから、こういうときに首を取られてしまうのか。鬼か、私は。
私にしても、私と同様のダメ人間たちにしても、何かそんなふうにものを言う事は逆効果だと思うのだけれど、どうしても言わずにいられないようで、そこには社会的背景があるのではないかと思う。
『怠惰への讃歌』という本を、バートランド・ラッセルという人は書いているらしいが、そのことを思い出した。今少し調べてみると、イギリスで上流階級の人が貧乏人が休みを取る権利を得たことに怒ったということが書いてあるらしい。貧乏人は働き続けるべきだという考えは、これはどういうわけか強固だ。貧乏人はこういう考えに反対してもいいと思うのだけれど、自分が労働に縛り付けられているのだから、誰かが楽をするのは許せないのだろう。
ラッセルの主張は働き過ぎの人と失業者を生むよりも、多くの人々が短い労働時間で余暇を得る方が生産的だという(誤解していなければ)もので、私の考えではもっともだと思うのだけれど、ご存じのように、この本が出てから80年経った今も、状況は変わらない。
失業者に対して怒りを感じるのは失業していない(貧乏)人たちで、自業自得だと、自己責任だという。
まあ、それももっともなのかもしれないが、何か落とし穴があるのではないか。


『イルカをボコる5つの理由』という本があるらしい。表題の作品は、人間がイルカと違って「大人になるまでしか遊べない」から許せないと憤る、という内容らしい。マンガらしい。気になる。


私も近いうちに労働に縛り付けられられないといけないとは思っているのだ。しかし、熱心ではない私は難しいかもしれない。実際に雇われたらちゃんと働くのだが、そういう問題ではないようだ。それ以前に、私がちゃんと働ける分野の仕事は過労のひとたちに分配されてしまっていて、残っていないようでもある。
ああ、どうしよう(実はあまり真剣に考えていない)。

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)