ぼんやりしよう

テレビでモーツァルト交響曲41番の2楽章を聴いていた。これは前にラジオで聴いていていいと思っていた同じ演奏がたまたまチャンネルを回して(死語)いたらやっていたので、一生懸命聴いていたのだが、ふと気付くとぼんやりしていて、そのぼんやり加減が懐かしかった。
昔はこのぼんやりした感じのために音楽を聴いていたようなものだったのが、いつかいつも一生懸命になっていた。この時ばかりではなく、民謡だろうが演歌だろうが雅楽だろうが一生懸命聴く。そして、他のことを考え始めていて、しまった、と思う。途中聴き逃した、と思ったりする。
と、書くと、おかしな話だが、これはこれで面白くないわけではない。音楽は聴くより弾くほうが面白いと思ったので、なんでもかんでもいつか弾くかもしれないと思って聴く。ある意味ではこれまた面白いと思う。しかしおおむね、どころか100%ありえないことを考えて、常に少し緊張しているのも確かだ。


思えば、役に立たなくちゃいけないと、思っている。無駄なことはきらいで、特に無駄な努力はきらいだ。お金になる仕事で、実は無駄になることは世の中に多いと思うが、それは特にきらいだ。役に立つ仕事がお金にならなくて、あまりやり手がいなかったりするのだ。いや、お金の話はいいや。


努力は嫌いなのだが、無駄な努力をしないための努力は好きで、そんなことばかりしていて、結局は、常に、中途半端な努力をしてばかりいるということになっている事に気付いた。寝る前までそうだ。目が覚めてすぐそうだ。
それは普通の人から見ると逆に怠けているようなものなのだが、常に少し緊張して時間を過ごしている。いろいろな原因があるのだろうが、何かふとぼんやりしたときに、それが久しぶりだということに気付いて、それはさすがに嫌だと思う。また、ぼんやりしていたのは一瞬だが、それはすごくいいことに感じられた。何か難しいことの解決にはぼんやりするようなことが必要なのではないかと、あまり根拠はないが思った。


と、いうようなことを書き終えないと安心しなかったので、その後しばらくぼんやりしなかったのだが、今こうして書き終えて、今度こそちゃんとぼんやりすることができるかもしれない。今日はあと1時間ぐらいか。

ぼんやりの時間 (岩波新書)

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