アマチュア音楽のアプローチ6 

ずっと以前から気になっていたマイルス・デイビスの曲が、テレビ番組の背景に使われていて、昨日2時間くらいかけてYouTubeで探してやっとわかった。「It Never Entered My Mind」で、「WORKIN'」というアルバムに入っているようだ。キース・ジャレットやマイルスの別のものも聴いてみたけれど、印象的なピアノの分散和音(?)が違うので、「WORKIN'」のものが、最も有名なのだろう。


と、昨日書いて、投稿しなかった。マイルス・デイビスは気になる。しかし、続いて何か考えて書こうと思っていたが、これっきり。でも、マイルスは気になるので残しておこう。
マイルスと、もうひとり、チャーリー・パーカーが気になるのには菊池成孔が関係ある。


ジャズというと、しかし、私はセロニアス・モンクがずっと好きだった。
それは今も変わらないけれど、今はビル・エバンスのほうが気になっている。それは、編曲して楽器で、マンドリンアンサンブルで弾きたいからで、モンクよりはやりやすいのではないかと思ったけれど、何冊も楽譜を買って、しかし、どうもうまく取りかかれない。以前、「ワルツ・フォー・デビイ」の、ソロピアノの(ショートバージョン?)をばらしてマンドリンアンサンブル用に楽譜を作ってみたけれど、そんなものは編曲ではないのだろうし、弾いてみたのだけれど、なんかすごく変だった。
それに懲りてもっとアンサンブルに合っているものとしてディブ・ブルーベックの「トルコ風ブルー・ロンド」・・・「テイク・ファイブ」ではなく・・・を5パートにばらしていて、しかし、途中普通の(?)4/4拍子のスイングに突然変わったり主に9/8拍子の変拍子的なリズムに戻ったりをくりかえす部分に来て、ちょっと頭が混乱してきた。そして放り出してから半月。ほかにもいろいろやっているのも悪いが・・・。
モンクは・・・たしかクロノス・カルテットが編曲してやっていたはずで、ていうか、そのアルバムを私も持っているはずで、器楽合奏でやる意義は充分すぎるほどあるし、才能があれば私だってやりたいのだが、才能じゃなくて努力だ、という気もするのだが、私にはとにかく根気がない!
しかしもとはと言えば特にやってみたかったのはやはりモンクの曲で、その中でも「クレプスキュール・ウィズ・ネリー」だ。けだるい、不思議な感じの曲。管楽器いくつかと、ドラム・ベースとピアノの編成だと思ったけれど違うかもしれない。原曲もアンサンブルっぽくて、たしか全て譜面を書いて演奏されたという話を読んだ気がする。つまりアドリブは少ないか、ないのかもしれない。小アンサンブルでは無理かもしれないし、音色の要素はかなり変わってしまうかもしれない。でも、違った良さが・・・出ないかなあ。あとは、「ブリリアント・コーナーズ」とか・・・ただ、こちらは「クレプスキュール・ウィズ・ネリー」と違ってアドリブが基本・・・。でも、あのテーマを合奏でやってみたい・・・。
しかし、これらは戯言でしかないかもしれない。
と、思っても、ジャズというものを、なんとかしてみたい気がしている。しかも、いちおうは、モダンジャズ、と、いうようなものを、か。
他には、月並みながらジョン・コルトレーンなんかも聴きました。時々聴きます。


マイルスから一日経って、何を聴いているのかというと、アルベニスのピアノのために書かれた組曲「イベリア」から、「マラガ」。以前NHKテレビの、名曲アルバムの拡大版みたいな番組で、「スペイン音楽散歩」だったかな。ギターのアンサンブルに編曲されたものを聴いて、ぶっ飛んだ。
いろいろな音が聞こえた・・・。「イベリア」のオーケストラ編曲版は聴いた事があるけれど、その中には「マラガ」はなかったのでくらべにくかったが、それを聴いたときよりも面白く感じた。こんなに立体的な音楽を聴いた事があっただろうか、というような感じ。
ドビュッシーラヴェルを思い出させられるものの、大好きな彼らの音楽で味わった事のない感覚、ギターの演奏だという事も関係があるだろうか。あるいは、ドビュッシーラヴェルの方が、ある意味ではアルベニスに及ばなかったという連想も浮かんだ。
ラヴェルの「ラ・ヴァルス」のような複雑なテクスチュア(?)を持っていて、ドビュッシーのような明快さも失わない・・・という言葉が適当かどうかわからないが、久しぶりの興奮、感動。
しかし、その後ピアノ版を聴いても、ギター版ほどの感動はない。YouTubeだったせいかもしれないが、そのYouTubeで見つけたギタートリオ版のほうが、いろいろ聴いてみたピアノ版より好ましい。でも、テレビで見た(聴いた)ものはもっとすごかった気がするが・・・。調べたところによると、ギターの2重奏、3重奏、4重奏盤が出ているらしく、そのどれかではありそう。
これは・・・アルベニスの曲はギター曲だと思われているものも、ほとんどピアノ曲だと思うけれど、とにかくギター曲としてすばらしい。ただ、それらのピアノ原曲はほとんど聴いたことがないが・・・いずれにしろ、編曲というものを、おしなべてまがい物のようにとらえる必要は、それほどないと思う。


とはいえ、自分がやると考えると、私や、一緒に弾くことができる仲間(実は現在、もうこれっきりになる可能性もある状態だが、そのことは横においておこう)の演奏技術、曲への理解力、私と仲間の意識のズレ、なんてことも関係がある。
が、しかしなんと言っても私の編曲能力が問題か・・・。


関係がないが、最近聴きなおして、昔聴いた頃よりもいいと感じたもの、フレドリック・ジェフスキーの、「不屈の民」変奏曲と、モートン・フェルドマンの、「ピアノと弦楽四重奏」。もう少し突っ込んで書きたい気もするが、とりあえず書いておいて、今日はこの辺にしておこうと思う。


とか、書いている間にYouTubeで、なぜかバッハのパッサカリアを聴くことになっている。
レーポヴィッツ(?)の編曲のものの次には、カール・リヒターのオルガンで聴いているが・・・すげえ・・・。バッハは無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータの、第2番の「シャコンヌ」も、超名曲だけれど、どちらにも共通する、何か宇宙的なとんでもない拡がり・・・時空を超えるような人間の想像力・・・ただし、それは人間が一個の生物であるということにとどまらない存在であることと関係が・・・何を書いてるんだろ・・・。

アマチュア音楽のアプローチ7

というわけで、ポップ、ロックの魅力を幼少期から嫌と言うほど(?)味わったのにもかかわらず、今や関心はクラシックへと向かっている。
ただし、クラシックは、もはや私にとってクラシックじゃない。


何かおだって(北海道弁?)しまって、昨日は眠れなかったのだが、収入がさっぱりないのは人として全くダメではあるが、それは社会的、客観的な問題であって、それをとりあえず忘れてみると、個人的、主観的には、時間がいくらあっても死ぬまで片付かないかもしれないと思っていた問題を少しずつ片付けられるかもしれないので、やっと、幸せというか、ほっとしている。自分のやりたい感じでは、音楽をできなくなっていた。やりたくないことをやっているわけでは決してなかったのだけれど、一旦立ち止まって、これは自分にとってどんな意味があるのか、と、いうことを置き去りにしてやってきたような気がするので、こんなあやしげなと文章を書いたりできるということが、掬いだ。


音楽で置き去りにしてきた感じというのは、なんで今こんなことをやっているのかという理由のようなもので、なぜそんなことを考えたかったかというと、ある意味では楽しかったことが楽しくなくなっていったからであって、本当に自分がやることなのかわからない感じが大きかったからだ。


ひとつは、マンドリン音楽のレパートリーの狭さにある。
大学生時代は、ほぼイタリアと、日本の曲のみ。イタリアの曲はたぶん100〜70年くらい前(現在から数えて・・・学生時代当時からすると80〜50年くらい前か・・・)の、アマディ、マネンテ、ボッタキァリ、ファルボが多かった。日本のものは、40年くらい前(当時からすると20年くらい前)、主に私が生まれた頃の鈴木静一の曲から、当時作曲されたばかりのもの(今はもう25年近く経ってしまっているが)まで、であった。
曲のできはともかく、現代の多様な文化状況からして、日本のもののほうが面白かったというのが、現在の私の色眼鏡の色がべったりついた記憶による感想だ。曲のできというと、様々な要素があるのでいちがいには言えないが、構成に関しては現代日本のアカデミックな音楽の世界の教養というフィルターが通っている分、しっかりとしていたものが多かったと思う。鈴木静一さんは、ちょっとよくわからないが、多くやったのが大栗裕さんのものだったこともあるかもしれないが。ただ、メロディーの出来、総合した音楽としてのちからみたいなものは一概にどちらが優れていると言えない。
あとは、やはり鈴木静一さんはまた微妙であるのだけれど、何か新しく、また自分に近しい感じがしたのも、日本のものだった。ただし、注意がいるのは、私は大学生のうちに、サティやバルトークが好きなような世間から外れた趣味になっていた(サティはいちおう流行っていたけれど)ことで、「前衛」趣味みたいなもの、「ゲンダイオンガク」がいいというのには、美術専攻で「ゲンダイビジュツ」に傾倒していたこととも関係がある。サティはともかく、バルトークは日本の作曲家におおいに影響を与えていたこともあり、聴く人にはなじまないものであるという留保付きで、弾く側として、新しい合奏曲の物珍しい響きを楽しんでいた。そんな合奏体験であったと言える。
(とはいえ、サティに関しては、北海道マンドリン界の最大の功労者が「ジムノペディ」のうちの1曲をとりあげていたことをあとから知ったり、現在の道内で活動している作曲家のなかでも代表的なおひとりがマンドリンオケで「パラード」をやったりしたものを、別世界を見るような感じで聴くこともあったのだが)
しかし、その後そんなことに何か疲れてしまうと、イタリアものもいいなあと思ったりもしたわけですね。ていねいに作ると思いの外美しい感じがして、保守的かつクラシックの有名曲と比べるとデタラメな感じは覚えつつも、最近は、面白い気もしてきているわけでもあります。
とはいえ、その後、編曲ステージを検討する必要などからクラシックの曲も調べると、がっくりしてくる。すごい、なんという創造性・・・いままでやってきたオリジナル曲って何? なんでこんな単純なのに、心をとらえるのか・・・(複雑なものが見事に組織されていたりのほうが多いけれど・・・しかし、そう考えるとこの文章のできの悪さよ)。


何を置き去りにしてきたかというと、そういうことで、その置き去りにしてきたことというのは、ちょっと片付けてもまたどんどん増えてくる。
世の中で、できることは、もっとほかにもある。今やっているよりも、もっと面白くてわくわくすることが、本当はできるはずだ・・・。
技術的な問題、楽器の特性、諸々あったとしても・・・。これは「コンポジション」ということが持つ性質も・・・結局はある種の「フォルム」の問題は表沙汰にならないなりにあって、そこに目を付けると技術などよりももっと重要な要素をきちっと抑えることが出来るというイメージ・・・ただし、演奏がダメでフォルムが崩れるということはあるはずだが・・・(この、フォルムということばの使い方は変です。構造のほうがいいかもしれないとおもいつつ、敢えて違う言葉にしたことは的外れではないと思ってはいるにしても・・・ )。
もしかしたら、バッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を買ってしまったことが、運の尽きだったかもしれない。なんでこんなに面白いのか・・・。
ひとりでやるより何人かでやるほうが面白いということはあっても、楽曲として、これに及ぶ面白さのもので、自分に少しでも関係がありそうなものは、絶無かもしれない。とは言えそれはト音記号が読めなかったこともあったのだし、その後無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータなんていうものも、買ってしまい、その中のシャコンヌがまたとんでもないモニュメントのようなものだということにも気付いたが・・・。
とはいえ、これらは弾いて面白いものであって、聴いて面白いと思わせられるものかどうかは、現代の耳にとって微妙だ。もちろん、私の技術でこれを弾くというのはやはり、「ウニに泥を塗る(by赤瀬川源平)」ようなものである、ということもある。
世の中うまく行かないが、私という人間がうまくいかないように出来ているというか、育ってしまったのだろうけれど。


それはそれで極端な例であり、仲間の作曲家が書いた曲も、たとえばひょんなことでやってみたアンダーソンの「トランペット吹きの休日」も、かなり面白くはあったものの・・・。
一方ではジョン・ケージやら、クセナキス、その前には武満徹が気になっていたりしたこともあったし、平行して、サティ、ドビュッシーラヴェルストラヴィンスキーバルトーク、唐突なようだが、バッハ、しょうがなくベートーヴェンハイドンモーツァルト・・・なんだかんだ言ってドヴォルザークチャイコフスキービゼーは好きだし、そこまで来るとまたマンドリンのオリジナル曲も少しは面白いということになったり・・・フォーレなんていう作曲家はよく知らなかったのだけれど、聴いて、調べてみるといぶし銀のように存在感を増してくる。ムソルグスキーに、リムスキー=コルサコフボロディンの魅力は・・・ハチャトゥリアン!子どもの頃から好きだったけれど・・・。
まだまだ重要な(私にとって)作曲家で出てきていない人はいるのだけれど、はなしはまだ終わらない。


ラテンや、ジャズをどうしても忘れるわけにはいかず、時々はどうしても戻ってくるのが、ビートルズ。のみならずスティービー・ワンダーバート・バカラック・・・それでアンダーソンや、バーンスタインなんかが・・・。
さらにはそれらすべて、すでに近代以降の西洋音楽の色がべったり付いているわけで、その外は実は広大な沃野があって、ということを思い出し、実はバッハ以前の西洋音楽もなぜか現代のポップス以上にそれらの外の沃野の空気を感じさせてくれる、と思ったら近代以降の音楽も、それが生まれた時の鮮やかさを感じるときには同じようなことに・・・というところで、話が無限に近く拡がっているのみならず理屈が確実にとおらないわけのわからない話になってしまったのだけれど、まあ、そういうわけでクラシックがクラシックではない、という、冒頭に戻ってこの項終了。


というところに蛇足を付けると、なぜかさっきからドビュッシーの「アラベスク」の楽譜を調べていて、ふと、文章を書こうと思ったのだった。
狂っているかもしれない。が、こんなものを吐き出すと少し良くなるかもしれない。