ミュージシャン

矢野顕子大村憲司 1992/07/02」という動画シリーズをYouTubeで見つけた。
すごい。
#2で矢野顕子さんが言っているように、「借りるんじゃなくて買」いたいけれど、お金がない。
このライブは買えるとかそういうものではないのだろうか。もとはテレビか何かなんだろうか。
ギターとピアノ弾き語りのデュオの、音が鳴った途端に目の前に空間か広がっていくような感じ、(#2から聴きました)すごい。

#1
https://www.youtube.com/watch?v=3K8n1QSn8Oc
#2
https://www.youtube.com/watch?v=93u5rCwgpdM
#3
https://www.youtube.com/watch?v=y90GTJhCpVo

ディヴィッド・ボウイ

大島渚さんが亡くなられて、ニュースで坂本龍一とディヴィッド・ボウイのコメントが読まれた。
坂本龍一は何かやっているのを知っている。
ディヴィッド・ボウイは時々思い出していたが、古い曲を聴くばかりだった。今何しているのだろう、と、思ったらしばらく活動していなかったのに今年になって再開した、というか、その成果が発表されていたということで、何か感慨深かった。


その新曲、「Where Are We Now?」は、なかなかいい。
なぜ、いいと思うのだろう。
穏やかで、諦念のようなものが感じられる。歌詞はよくわからない。
ボウイは66歳らしい。


なぜか沢田研二を思い出した。彼は64歳だ。反原発の歌を最近歌ってたなあ。

The Next Day

The Next Day

彫刻メモ121223

フェイスブック経由でアントニー・ゴームリーとアニッシュ・カプーアの新作を、Webでだけれどもちろん、見た。
ゴームリーは実作を見たことがあるが、今も札幌芸術の森にあるものを時々見るのと、もしかしたら同じ場所でまとめて作品を見たような気がしてきたが、記憶が薄れているが・・・カプーアは、美術手帳などで見たことがあるだけ。

アニッシュ・カプーアは以前知っていた感じと違う感じのものがあり、面白いが、そのうちちょっと無節操じゃないかという気もしてきた。でもさすがに面白そう。シドニー・・・オーストラリア現代美術館で、おとといからやっているみたいだ。

ゴームリーが面白い。お金持ちだったら見に行くな。お金持ちなら仕事などせず世界の展覧会を見ているだけで一生終わってしまうか。
以前の人間(作家自身?)から延長して(?)作ったものより、画像で見た限りではもっと好きだ。こんなふうに作家に対するイメージが裏切られるということほど刺激的なことは、なかなかないのではないか。
とはいえ、直方体の組み合わせながら人体を連想させるところは、かつてのシリーズ(?)との関連を伺わせる。そのこともあわせ、面白い。
材質は鋳鉄らしい。大きなモノは Weathering steel なんて書いてあるけれど、なに鉄だろう。「耐候性鋼」と、訳されたが。
あとは、ゴームリーの作品は、彫刻と言っていいのか、という疑問を持った。人体との関連性を考えてもある意味彫刻の王道で、20世紀彫刻の代表的な特質である抽象的な要素もあるといえるし、材質も、スケールへの意識もすぐれた現代彫刻以外の何モノでもないと言いたくもなるが、何かちがう気がする。

カプーアは彫刻らしい気がしてくる。
イサム・ノグチやムア、ヘップワース、このあたりはもう20世紀彫刻のクラシックで、セラ、ヘス、あるいはジャッドやソル・ルウィット・・・このへんになると彫刻かどうか怪しい気がしてきたが・・・それを考えると、彫刻かどうかを気にすることに意味があるのかが気になってくるが。
その後の世代にあまり興味が持てない私はモダニストかもしれないとか、フォーマリスト・・・なんて言葉が浮かぶ。
そういえば、デヴィッド・スミス、アンソニー・カロ、リチャード・ディーコン・・・なんて続けて書いていいものか・・・最近ちょっと見直したくなってきていた。
ジョン・ダフなんて人の作品がおもしろそうだと思ったこともあった。ジョエル・シャピロ・・・。
場合によってはジェームズ・タレルなんて人まで、思い出してしまうが、あるいは艾未未・・・単にオリンピックスタジアムの造形が現代彫刻的だという連想か・・・。蔡國強・・・。ウォルター・デ・マリア・・・。
ヨーゼフ・ボイス・・・。
日本では村岡三郎が気になったりするが、話がそれているだけか。

奈良美智の彫刻が話題になっていて、くやしいが私も面白かった(これも美術手帳で見ただけだが)。あれも先入観がくつがえされるようで一貫したモノもある、ということで連想した。
単に連想したことを書いていると収拾がつかなくなる・・・。

そもそもが彫刻を話題にするということに私の20世紀原理主義的な、または厨房と言われるようなにおいがにじみ出てしまっている気がする。が、こだわってきたのだろう、こだわっていることがあたりまえになってこだわっているつもりもない気がしてさえいるのだ。いや彫刻ということはあたりまえに私のなかで生きている。ただ、私という存在が生きているかというとあやしい。

中原佑介美術批評選集〈第6巻〉現代彫刻論―物質文明との対峙

中原佑介美術批評選集〈第6巻〉現代彫刻論―物質文明との対峙

アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)

アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)

ぼんやりしよう

テレビでモーツァルト交響曲41番の2楽章を聴いていた。これは前にラジオで聴いていていいと思っていた同じ演奏がたまたまチャンネルを回して(死語)いたらやっていたので、一生懸命聴いていたのだが、ふと気付くとぼんやりしていて、そのぼんやり加減が懐かしかった。
昔はこのぼんやりした感じのために音楽を聴いていたようなものだったのが、いつかいつも一生懸命になっていた。この時ばかりではなく、民謡だろうが演歌だろうが雅楽だろうが一生懸命聴く。そして、他のことを考え始めていて、しまった、と思う。途中聴き逃した、と思ったりする。
と、書くと、おかしな話だが、これはこれで面白くないわけではない。音楽は聴くより弾くほうが面白いと思ったので、なんでもかんでもいつか弾くかもしれないと思って聴く。ある意味ではこれまた面白いと思う。しかしおおむね、どころか100%ありえないことを考えて、常に少し緊張しているのも確かだ。


思えば、役に立たなくちゃいけないと、思っている。無駄なことはきらいで、特に無駄な努力はきらいだ。お金になる仕事で、実は無駄になることは世の中に多いと思うが、それは特にきらいだ。役に立つ仕事がお金にならなくて、あまりやり手がいなかったりするのだ。いや、お金の話はいいや。


努力は嫌いなのだが、無駄な努力をしないための努力は好きで、そんなことばかりしていて、結局は、常に、中途半端な努力をしてばかりいるということになっている事に気付いた。寝る前までそうだ。目が覚めてすぐそうだ。
それは普通の人から見ると逆に怠けているようなものなのだが、常に少し緊張して時間を過ごしている。いろいろな原因があるのだろうが、何かふとぼんやりしたときに、それが久しぶりだということに気付いて、それはさすがに嫌だと思う。また、ぼんやりしていたのは一瞬だが、それはすごくいいことに感じられた。何か難しいことの解決にはぼんやりするようなことが必要なのではないかと、あまり根拠はないが思った。


と、いうようなことを書き終えないと安心しなかったので、その後しばらくぼんやりしなかったのだが、今こうして書き終えて、今度こそちゃんとぼんやりすることができるかもしれない。今日はあと1時間ぐらいか。

ぼんやりの時間 (岩波新書)

ぼんやりの時間 (岩波新書)

こんなところにいてはいけない

どこへでもどこからでも僕らは旅に出るべきなんだ
こんなところにいてはいけない
ちらかってる部屋の中で迷ってるのはもうやめにして
こんなところにいてはいけない


これはAmazonの『荒野の呼び声 -東京録音-』のページで45秒だけ試聴できる、矢野顕子の『こんなところにいてはいけない』の冒頭の歌詞。
たしか車に乗ったら佐野元春のラジオ番組でかかっていた。うたとともに言葉が耳から頭の中に入ってきて、目が覚めたような気分になった。
私はまさに「ちらかってる部屋の中で迷ってる」のだ。文字通りめちゃくちゃにちらかっている部屋の中でこんな文章を打っているが、こんなことはやめなきゃいけない。


しかし、なんだこの正しさ。
本当に久しぶりの目の覚めるような感覚。私にまさしくあてはまるのだけれど、私にだけではなく、今のものすごくいろいろなことに通じる。
奥田民生の『さすらい』「さすらおう」という歌詞を思い出した。「まわりはさすらわぬ人ばっか」、と、ミュージシャンがそんなことではあるまい、と思うものの、まあ、そんなものだ。
さすらうのは無理だが、旅に出るべきだな。

荒野の呼び声 -東京録音-

荒野の呼び声 -東京録音-

さすらい

さすらい

怠惰への讃歌

不景気なお話(ばかり)で失礼いたします。
失業4ヶ月、半月後くらいから始まった給付も次が最後。
さらに不景気な話で、働きたくない。考えたくない。なんて、あと数日は言っていたい、という程度ですので許してください。
ああ、4ヶ月遊んでいたのだから、許されはしないのか。


mixyの、マイミクシイの方の、といってももっぱらROMで日記を読ませていただいている方の日記で、「疾風」なんて飛行機があったらしい事を知り、なぜかぼんやりと、戦時中はどんなだったのか、どんな気持ちで人々は暮らしていたのか、と考える。少し想像するが、像は結ばない。


韓国では全国民を対象に精神疾患の検診を実施するという。あちらでは精神疾患は市民権を得たのだろうか。こちらのネットでかいま見る、メンヘラ、なんていう言葉でレッテルを貼られてしまわないのだろうか。と考える。そういうわけはないだろうな。検査の結果が公表されはしないだろうと思うが、どう対応するのだろう。自殺率がOECD加盟国の中でワーストだというが、日本はどんなものなのだろう。とにかく対策をとらないよりはマクロ的にはいいのか。


だらだらしていたいというようなことを口に出すと、それを聞いた人がにわかに目の色を変え、やんわりとだったり、毅然としたり、非難されることが多い。やんわりであってもむしろ目の色の違いが際だつばかりだ。
そのたびに、その言われた内容はわかっているのだけれどなあ、と、げんなりしてしまう。私が普段エラそうだから、こういうときに首を取られてしまうのか。鬼か、私は。
私にしても、私と同様のダメ人間たちにしても、何かそんなふうにものを言う事は逆効果だと思うのだけれど、どうしても言わずにいられないようで、そこには社会的背景があるのではないかと思う。
『怠惰への讃歌』という本を、バートランド・ラッセルという人は書いているらしいが、そのことを思い出した。今少し調べてみると、イギリスで上流階級の人が貧乏人が休みを取る権利を得たことに怒ったということが書いてあるらしい。貧乏人は働き続けるべきだという考えは、これはどういうわけか強固だ。貧乏人はこういう考えに反対してもいいと思うのだけれど、自分が労働に縛り付けられているのだから、誰かが楽をするのは許せないのだろう。
ラッセルの主張は働き過ぎの人と失業者を生むよりも、多くの人々が短い労働時間で余暇を得る方が生産的だという(誤解していなければ)もので、私の考えではもっともだと思うのだけれど、ご存じのように、この本が出てから80年経った今も、状況は変わらない。
失業者に対して怒りを感じるのは失業していない(貧乏)人たちで、自業自得だと、自己責任だという。
まあ、それももっともなのかもしれないが、何か落とし穴があるのではないか。


『イルカをボコる5つの理由』という本があるらしい。表題の作品は、人間がイルカと違って「大人になるまでしか遊べない」から許せないと憤る、という内容らしい。マンガらしい。気になる。


私も近いうちに労働に縛り付けられられないといけないとは思っているのだ。しかし、熱心ではない私は難しいかもしれない。実際に雇われたらちゃんと働くのだが、そういう問題ではないようだ。それ以前に、私がちゃんと働ける分野の仕事は過労のひとたちに分配されてしまっていて、残っていないようでもある。
ああ、どうしよう(実はあまり真剣に考えていない)。

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)