「やけくそ天使」

やけくそ天使 (1) (秋田文庫)

やけくそ天使 (1) (秋田文庫)

1975〜77年連載、「やけくそ天使」というちょっと語感のいいタイトル以上にやけくそで、とんでもない、えげつない作品。少年マンガっぽい絵柄につられて、「ちょっとエッチなマンガ」だと思って買う子どもがいたらちょっとかわいそうだ。「プレイコミック」という雑誌に連載されていたらしい、大人向け。これはなんと「キャプテンハーロック」が連載されていたらしい秋田書店の雑誌。この雑誌は今もあるのだろうか・・・あるようだ。


これ以前の吾妻作品はほとんど知らないが、この作品は様々なネタの実験場のような、はちゃめちゃなものだ。子ども向けのシバリがないせいかやりたい放題のようでもある。「天才バカボン」を連想せずにいられないと言ったらマンガマニアの方々にはあきれられるのかもしれないが。ずいぶん以前に買ったもので、その時にはさほど面白いと思わなかったが、やはり天才的な鮮やかさ、ネタの多彩さ、瞠目するおもしろさがある。吾妻作品に親しんで、やっと理解力が育ってきたのか。
後半だんだんとこの後のSF時代、吾妻ひでおの「黄金時代」につながる要素が出てきているかもしれない。ただ、SF時代のものより導入が親しみやすいだけに展開後の非道さがかえって際だっているかもしれない。
しかし、作品としての一貫性はあまりない。その点で考えると、今のマンガ家、今のマンガ諸作品は全作品を見通した息の長い構想がないと、認められにくいのかもしれない。読み切りの集合であっても、「マカロニほうれん荘」ほどにもバラエティに富んだことはなかなかできないかもしれない。と、すると、「天才バカボン」や、「やけくそ天使」のようなアナーキーなものが出てくるのは現在では望めないかもしれない。
現在の残酷な作品は、残酷だと前もってお断りがあるものだが、「天才バカボン」では、ママやはじめやバカボンのやさしい家からパパが出掛けて残虐の限りをつくす事態を引き起こし、やさしい家に帰ってくる。こんなヒドイ話しはないかもしれない。「やけくそ天使」の阿素湖は、最初からヒドイ人なのだが、表情豊かで、朗らかで、魅力的で、かつ大変まともな弟と暮らしている。バカボンのパパの記号的な表情よりは吾妻の描くキャラクターはしなやかで、肉感的で、親しみやすいので、「天才バカボン」とは違った非道さが際だつかもしれない。


あと、吾妻作品に特徴的なのは、メタ・フィクションとでも言うべき要素で、端的に言うと作者の作品への登場だ。「天才バカボン」にも、さらに手塚治虫にも見られたはずだが、そのことが吾妻作品ではことさらにクローズアップされ、効果を上げる。それがエスカレートしていく作品でもあるかもしれない。
しかしこれは、危ういものであったのかもしれない。この後の時代に作品への作者の登場は少なくなり、作品のフィクションとしての完結性はより安全な形で保証される様になっているのかもしれず、それには相応の理由があるのかもしれない。


「かもしれない。」だらけかもしれない。