心の健康について

さっき、ふと、気持ちが落ち着いていることに気付いた。
そんなことにわざわざ気付くのは、ふだん気持ちが落ち着いていないことのほうが多いからだ、ということにも気付いた。
私に軽うつ、とかいう診断を下す医師も、おそらくはけっこういるだろう、とも思った。そんなことばは使わないか、医者は。
気分障害、という言葉が思い浮かぶ。そういう言葉だとしっくり来るが、そういう言葉も使わないか。


しかし、そういう診断で問題なのは、その誰かの症状そのものよりも、病院に行くか行かないかということのほうが、実際の診断を左右する、というような状況なのではないか、日本の、もしかしたら多くの国でも同様かも知れない、心の健康をめぐる状況は。


素人の状況認識に過ぎないとあらかじめ断って書くのだが、日本の精神科、心療内科の現状はお寒い、と思う。半ば役に立たないと考えている。
特に軽症の場合には軽度だと断りがあったとしても診断を受ける事そのもので心に傷を受け、その診断を受けたという認識が自己評価を下げ、その自己認識の変化が社会に対する対応能力の低下につながる、てなことがおこりうる、と思っている。


これはしかし、精神科、心療内科の現状でもあるがそれだけではなく、日本社会の、あるいは人間社会の問題だとも考えられる。
ただし、これもややこしい。
人間以外の動物では、いわゆる弱肉強食は、あたりまえと言ってもいい状態だ。人間の社会でもほぼ常態といえなくもないが、それを望ましいことだとは言えない。かといって、おそらく、人間も動物であるから弱肉強食的なことを根絶できない。
あるいは人間の場合に問題なのはその強さや弱さの根拠となる事柄、パラメータがいくつかにはっきりとしているわけではなく・・・人間以外の動物もそうだな・・・とすると・・・自己認識そのものが強さや弱さの大きなファクターになることで・・・動物でもそんなことがないわけではないか。ボス猿とか。・・・。
とすると、違いは言葉か。言葉の特質は抽象化。
動物では具体的な強さや問題解決能力そのものである知力のようなものが一体化した強さがはっきりしているが、人間の場合は言語による抽象化が・・・実態とずれた認識を生み出しやすい、とか、しかしそのずれた認識であろうとそれをもとにして行ったことで新たな実態が作られることもあり、・・・。


素人の状況認識に過ぎないと再び断って書くのだが、精神科、心療内科の現状の話としては、問診にたよる、というか問診が全てとも言える医療の危険、これは説明が複雑で、診断を下したためにその病気が長引くこともあると思う。診断を下したためにその病気になることも。しかし、それを証明することは難しいとか・・・。
さらには自分が精神疾患であるという思いこみが、実際にそうであってもなくてもその疾患を悪化させる、自分がダメな人間だと思い始めてしまったりもする。これはつまり精神疾患が普通ではなく忌避すべきものだという認識のためにそうなるのだ。というようなことは、よくあることなのではないか。そんなかんたんなことでもないだろうけれど。


そんなことを考えたが、最初の話に戻る。
私が健康なような気持ちになった要素の一つは、リラックスしたことだろう。リラックスできたのは、自分がある程度問題解決能力を行使できていると感じているからだろう。そう感じられたのは、ある程度問題を引き受け、その問題にいちおうのある程度の成果と、今後の見通しを持てているからだろう。
あとは、その解決のための行動による、肉体的なものと精神的な緊張の疲れが、自然なものだと感じられたということで、あるべき状態が戻ってきた、というような感覚を持てたのだろう。
ありていな言い方だと、よりよく生きている実感が心の健康をもたらしたのだ。
しかし、これは個人的なもののことで、現実社会で実際に社会的によりよく生きているかどうかということのほうは、必ずしも心の健康を大きく左右するわけではない。左右することはするが、それも、大きく・・・。


ふと思ったが 、社会的によりよいことをしようと、そもそもしなければ、常に精神は健康だということも考えられないだろうか。弱肉強食を実践するような精神。
しかしそれはまた、実際に診断を下されているような精神疾患とは違うある種の病で、その病にも私を含めた多くのひと、おそらくほとんどすべての人々も多かれ少なかれ、感染しているのではないかと思ったが、なんとややこしいことを書いているのやら。