でたらめ音楽日記110307モルダウなど

スメタナの「モルダウ」が聴きたくなってYouTubeで探していたら斉藤和義がやっているようで、面白いと言えば面白い。しかし、なんでシンプルなこの曲をいいと思うのだろう。
マンドリンオケでやったらどうだろうと思って検索してみたら藤掛廣幸さんのものがあったけれど、何か効果音的にマンドリンを使っていて、和音が厚く、エコーがバリバリにかかっていて、重厚というかなんというか、テンポが前のめりで(なんとなくそんな気がする)、どうもイメージと違う。フルートも、この際は困る。
もっとシンプルでさっぱりとした感じのものはないか、と、思ったが、マンドリントレモロだとこんなになってしまうのか。
クーベリックチェコフィル1990年のものが関連動画にあったのでそっちを聴く。いいのだけれど今日はこれもどうも違う。
ボビー・マクファーリンがウイーン・フィルを振ったものが出てきた。うーん。悪くないといえばそうだが、指揮の様子が映るとちょっと辛い感じ。私が言えた義理では無かろうけれど。
次はノイマンチェコフィル。今日はクーペリックよりこっちかなあ。
楽譜、オーケストラスコアをダウンロードしてあったので楽器を取り出してメロディーをなぞる。16分の細かい動きもちょっと辿ってみる。これを弾くのはちょっと難しそうだけれど、楽しいかも知れない。これくらいのことをやってみたほうが、やりがいがあるという物かも知れない、と思ったが、果たして程度問題として正しいかどうか。
私自身はとにかくメロディーの気分が味わえればいい。似たような動きが繰り返されるけれども違う。「トロイメライ」というシューマンの曲がもっと短いメロディーを微妙に変えて繰り返した物だけれど、そちらの変化の作り方より「モルダウ」のほうが堂々としていて好きだ。とはいえ、ちよっと普通すぎると昔は思っていて、楽器で楽譜の音を辿ってみて思っていたよりも深い陰影、階調の豊かさに気付く。


その次にはチャイコフスキーの4番の2楽章の楽譜をまた引っ張り出してメロディーを辿る。これもまた深い満足を感じさせてくれる。
それにしても、ほかにはベートーヴェンの5番の2、3楽章とか、とりわけ7番の2楽章とか、陰鬱なものが気に入っているようだけれど、これは私にとって本当に陰鬱な時期が過ぎ、少し余裕がある中で陰鬱な現実を過去として受け容れることとシンクロしているからか、とも思ったが、音楽としてのユニークさが何より重要だとも思う。ベートーヴェンの5番は1、4楽章が極端で辟易してきたのだけれど、2、3楽章の印象が薄かったりしたのだけれど、その、全く印象になかった3楽章の冒頭の低音弦の動きがすでに非凡だと気付くと、そんなことにある種の戦慄を覚える。あの、髪を振り乱して目をつり上げたようなベートーヴェン肖像画の印象が、どうも余計な印象を植え付ける役割を果たしていやしないか、などと学校の音楽室のせいにしたくもなる。
が、楽器で弾かないと、私ごときにはベートーヴェンの良さはわからなかったのであり、敗北宣言はしておこうと思う。


対して、聴いてすぐ惹きつけられたのは、ドビュッシーやサティだったかもしれず、印象派であったかもしれず、しかしどうしてそうなのかというと、私が子供の頃の放送の音楽プロデューサー的なひとたち、ドラマや映画の作曲家が影響を受けたのが、サティはともかくドビュッシーストラヴィンスキーだったり、バルトークや、シェーンベルク、ときにはジョン・ケージシュトックハウゼンだったりしたのだろうと、想像しなくもない。
白石美雪さんのケージの本を買っていたが、しばらくぶりにページを開いたりしている。

俺たちのロックンロール

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スメタナ:連作交響詩「わが祖国」

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ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー

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