でたらめ日記20110218

まずは世界情勢。
えーと、最初はどこだったかな、アルジェリア、か、につづいてエジプトで反(独裁的)政府デモで大統領失脚。デモの死者は365人だという。
アラブ(独裁的)諸国にひろがるデモ、最も強権的で知られる(と思う)リビアでの拡がりが、金曜の集団礼拝後にヤマをむかえることが注目されている。


つぎは世界と日本のはなしで、インドのタタ・キャピタルと日本のみずほグループが提携するとか言うようなニュースにワタクシは注目。中国と商売するよりは世界のためにいいのではないか、ということに特に根拠はないが、ケーザイの話としては私には悪くない方の話。タタのちっちゃくて安い車も、詳しく知らないからかも知れないが嫌いではない。インドで売り上げナンバーワンの自動車メーカーが日本のスズキだという話も嫌いではない。


日本の政治では、民主党の、小沢系の泡沫候補の地滑り当選的議員、なんて書いてしまいはしたけれど特に馬鹿にするつもりはなく、そんな人たち10数人が会派離脱という変則的なかたちで抗議。何に? そういえば何に抗議するのだろう。
この人たちの是非はわからないが、政治の局面で何かを人質にして取引するような話が多いことは否めない。
自民党を支持するわけにはいかないなあ。もっともらしい顔をして小沢氏にばかり注目しているのは民主党内にも利害が半分一致するらしい人たちが多い(それが現在執行部!)あたりでいやらしいこときわまりないと思う。政策を粛々と進めてほしい。
政権党はいまだ民主だし、それは国民の信託で決まったわけだし、何かひとつでもしてもらわないと、日本の政治状況はかわらない。民主の政策が本当に悪いのか、試してみてから、たとえ被害が甚大であったとしても日本の国として新たなスキルになると思うので、小沢氏の話になってもいいのじゃないか。
クリーンな政治の実現と(それを目的としているとはとうてい思えないが)政策の実施の検討は並行して進めるべきだし、クリーンな政治の実現のための作業は、小沢氏の問題にばかりかかずらわるよりも、彼がやったと思われているのとはちがう形での抜け道をも考えられないような方策の検討こそ重要だろう。同じ事はしないだろうし、出来ないだろう。
スモーの八百長が話題になっているが政治がらみの汚職の取り上げ方も八百長くさい。


フィギュア・スケートの番組を少し見たら、高橋大輔がSPで完璧な滑り、動きでマンボという選曲も面白くて満足。スケートの存在が振り付けの表現の足かせになっておらず、なめらかで自然な表現に終始できた、そんな演技をたまたま見ることが出来て幸運だった。
キーラ・コルピ、女子で、美人で有名な人で、そういうことに注目するのはあまり好きではなかったけれど、けれどインタビューの内容と表情に惹かれてちょっとファンになった。しかし彼女の演技はあまり見なかった。
カロリーナ・コストナーの演技は見た。高橋大輔と違って完璧ではなかったが、選曲が「牧神の午後」でうれしくなった。切り刻まれて変なつなぎ方をされていたけれどそれでも、あの不思議な音の世界が拡がる中でスケートを見ることが魅惑的だった。


で、ドビュッシーのすごさを感じたのであって、特にその「牧神の午後への前奏曲」の、自然の世界、生態系や水の循環のひろがりを感じさせるような、印象派なんていうとそんなくくりをすべきかどうかなんてこともあるだろうけれど、音楽の世界のたったひとりの印象派、外光派、アウトドア派はドビュッシーなのではないかなどとそんなことを考えた。
「牧神の午後への前奏曲」という曲のすごさ、明るさ、のびやかさ、も特筆すべきだと思う。


久しぶりにお酒を飲む。200円くらいで、ガラスコップ入りの大吟醸酒なので買ってみたが、あまりフルーティーではなかった。


明日と明後日は彫刻づくりの正念場。その次の土日は両方とも休めないのだ。その後は個展まで20日しかない。絶望的な、ということにならないのは、単に気分の問題に過ぎないのかも知れないが、いちおう絶望的ではない。


19日になってしまった。

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲、夜想曲、交響詩<海>、イベリア

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲、夜想曲、交響詩<海>、イベリア

心の健康について

さっき、ふと、気持ちが落ち着いていることに気付いた。
そんなことにわざわざ気付くのは、ふだん気持ちが落ち着いていないことのほうが多いからだ、ということにも気付いた。
私に軽うつ、とかいう診断を下す医師も、おそらくはけっこういるだろう、とも思った。そんなことばは使わないか、医者は。
気分障害、という言葉が思い浮かぶ。そういう言葉だとしっくり来るが、そういう言葉も使わないか。


しかし、そういう診断で問題なのは、その誰かの症状そのものよりも、病院に行くか行かないかということのほうが、実際の診断を左右する、というような状況なのではないか、日本の、もしかしたら多くの国でも同様かも知れない、心の健康をめぐる状況は。


素人の状況認識に過ぎないとあらかじめ断って書くのだが、日本の精神科、心療内科の現状はお寒い、と思う。半ば役に立たないと考えている。
特に軽症の場合には軽度だと断りがあったとしても診断を受ける事そのもので心に傷を受け、その診断を受けたという認識が自己評価を下げ、その自己認識の変化が社会に対する対応能力の低下につながる、てなことがおこりうる、と思っている。


これはしかし、精神科、心療内科の現状でもあるがそれだけではなく、日本社会の、あるいは人間社会の問題だとも考えられる。
ただし、これもややこしい。
人間以外の動物では、いわゆる弱肉強食は、あたりまえと言ってもいい状態だ。人間の社会でもほぼ常態といえなくもないが、それを望ましいことだとは言えない。かといって、おそらく、人間も動物であるから弱肉強食的なことを根絶できない。
あるいは人間の場合に問題なのはその強さや弱さの根拠となる事柄、パラメータがいくつかにはっきりとしているわけではなく・・・人間以外の動物もそうだな・・・とすると・・・自己認識そのものが強さや弱さの大きなファクターになることで・・・動物でもそんなことがないわけではないか。ボス猿とか。・・・。
とすると、違いは言葉か。言葉の特質は抽象化。
動物では具体的な強さや問題解決能力そのものである知力のようなものが一体化した強さがはっきりしているが、人間の場合は言語による抽象化が・・・実態とずれた認識を生み出しやすい、とか、しかしそのずれた認識であろうとそれをもとにして行ったことで新たな実態が作られることもあり、・・・。


素人の状況認識に過ぎないと再び断って書くのだが、精神科、心療内科の現状の話としては、問診にたよる、というか問診が全てとも言える医療の危険、これは説明が複雑で、診断を下したためにその病気が長引くこともあると思う。診断を下したためにその病気になることも。しかし、それを証明することは難しいとか・・・。
さらには自分が精神疾患であるという思いこみが、実際にそうであってもなくてもその疾患を悪化させる、自分がダメな人間だと思い始めてしまったりもする。これはつまり精神疾患が普通ではなく忌避すべきものだという認識のためにそうなるのだ。というようなことは、よくあることなのではないか。そんなかんたんなことでもないだろうけれど。


そんなことを考えたが、最初の話に戻る。
私が健康なような気持ちになった要素の一つは、リラックスしたことだろう。リラックスできたのは、自分がある程度問題解決能力を行使できていると感じているからだろう。そう感じられたのは、ある程度問題を引き受け、その問題にいちおうのある程度の成果と、今後の見通しを持てているからだろう。
あとは、その解決のための行動による、肉体的なものと精神的な緊張の疲れが、自然なものだと感じられたということで、あるべき状態が戻ってきた、というような感覚を持てたのだろう。
ありていな言い方だと、よりよく生きている実感が心の健康をもたらしたのだ。
しかし、これは個人的なもののことで、現実社会で実際に社会的によりよく生きているかどうかということのほうは、必ずしも心の健康を大きく左右するわけではない。左右することはするが、それも、大きく・・・。


ふと思ったが 、社会的によりよいことをしようと、そもそもしなければ、常に精神は健康だということも考えられないだろうか。弱肉強食を実践するような精神。
しかしそれはまた、実際に診断を下されているような精神疾患とは違うある種の病で、その病にも私を含めた多くのひと、おそらくほとんどすべての人々も多かれ少なかれ、感染しているのではないかと思ったが、なんとややこしいことを書いているのやら。