「五年生」

五年生(1) (アフタヌーンKC)

五年生(1) (アフタヌーンKC)

木尾士目というひとのマンガは、随分前になんとなく「陽炎日記」を読んでいた。これは私には、どうも乗り切れないから手放したいのだけれど売っぱらえない妙に引っかかるポジションの作品だった。私は「売っぱらう」ことが滅多にないので、これはかなり低い評価だ。
げんしけん」を書店で見かけた時には、なにか面白そうなオーラを感じはしたものの、「陽炎日記」の印象があって何度か買うのをやめている。
はたして「げんしけん」は面白かったのだが、そのために、遡ってみたくなって読んだ「四年生」「五年生」は、どうも「陽炎日記」に近い印象のものだった。ぐだぐだ。若い日の思い出したくない嫌な部分が沢山詰まっている。さらになんか考えオチのような展開(展開はオチではないので言葉はおかしいが、意図を汲んでください)、映像的なコマのインサートのような技法は、成功していないよね。
絵も、「げんしけん」からするとかなり下手だったようだ。というか、基本的には同じ人だとわかる特徴は残っているけれど、コマ割りや構図からキャラの柔軟な表現から描線まで「げんしけん」が段違いで上手で、これは努力しているんだなと、そのことに感動しそうなくらい。今「陽炎日記」をパラパラと見たら、さらに時計の針を戻したように下手で、こんなに絵が上手くなっていく人っているのだ、しかもデッサン力とかのみならず、なんというかセンスもどんどん良くなっていく、と、感動。


それで、「四年生」「五年生」は、このあとに「げんしけん」が来るのだという興味込みでかもしれないが、面白かった。はっきり言うと、嫌いなタイプど真ん中の作品だ。でも、ぎりぎり「アリ」だな、「げんしけん」がなければ気付かなかっただろうけれど。
ぐだぐだした人間関係で、それと関係のない日常までも色あせるような、そんな話し。ありがちなのか、自分にも似たようなことはあったが、かといって、ほかのひとはどうなのかわからない。話したくないから話さず、従ってひとの似たような話も聞かなかったようなことだな。最近はそんなこともなく、つまり恋愛をしていないということにすぎないかもしれないが、さっぱりと毎日を過ごしていると、いえば、している。そんな私の日々も欺瞞なのかも知らんが。どちらにしろ思い出したくないような気分だ。
そんな事を取り上げることの是非はともかく、この話は最後間際に一旦かもしれないが解決していくようだが、それもなんだか会話の上に寄りかかった、しかも観念的な・・・ということで、どうも納得したくないような気持ちの悪い終わり方だ。良い作品ではないな。ただ、作品自体にリアリティはないが、作者がテーマになんとか肉薄している、しようとしているというリアリティが、あるかもしれない。
げんしけん」では、この「四年生」「五年生」の主人公たちがぐだぐだこだわっていたことと、似たようなことや似ていないようなことが、もっと何倍も表れては消え、ちゃんと解決したり解決しなかったり、ずんずんジンセーは進んでいく。そして、「四年生」「五年生」より、リアルだと、思う。バーチャルリアルがリアルと錯綜しつつ、何倍も豊かに物語は実りを得たと思う。
こんなの好きな人はセンスがないんじゃないか、と、少し前なら思っただろう。その気持ちも、まだ残っている。「四年生」「五年生」を、好きな人に悪いけれど。しかし、なにか新しい可能性を見つけた気もしている。こんなところを通って、明るい場所に出るやり方もあるのか、なんて。


と、いうわけで、やっぱり「げんしけん」を気に入った人のほとんどには勧められない、が、面白かった。