「坊ちゃんの時代」

この初巻が出てから来年でもう20年になるようだ。最終巻からは10年。その間の10年間に分厚い冊子が5冊、ポツポツと刊行され続けたものだ。最初に読んだときは若干難しすぎ、読み返しながら読んだ気もする。1巻(第1部)はかなり早く買って、2巻以降を読んだのは5巻全て出そろってからだったかもしれない。2巻の奥付の刷った時期が5巻の頃のようだ。今も書店によっては置いているところがあるのではないか。少しずつ売れつづけているのではないか。買ってしばらくしてから読み直したというようなことはあっただろうか。少なくとも最後に読んでから数年、おそらく4、5年は経っている。

簡単にいうと、明治時代のいわゆる文士の人脈を中心に描かれた明治という時代のスケッチ・・・というには細密に、ていねいに描かれたものではある。エピソードは選りに選られたものでもあろうが、昭和に育った私の知らぬ事ばかりであり、目を見張る事ばかりだ。登場人物には少なくとも名前には馴染んだひとがそろっているのだが。
副題に「凛冽たり近代/なお生彩あり明治人」とある。登場人物の関わり方、ちょっとした台詞にはっとするところがある。それはたとえば、それなりに現在にまで記憶されている者と、知られるべくもない市井のひととの会話だったりもするのだ。過去を美化していると言えないこともないがこういうこともあったかもしれない、さらに、確かなのは現在にはあり得ないというようなことだ。「なお生彩あり明治人」ということの真髄はここにもある。この台詞から現代を照らすと、現代人ははたして生きているといえるのだろうか。特に私がであろうけれど。
何が違うのか、簡単ではない。私たちが世界の中のどのようなところ、どのような時代に生きてしまっているかということが、世界の片隅に逼塞している私のような人間にも、おそらく誰にでも、政治にも歴史にも関心のない人にも、確実に関係している。たとえば私が鬱屈する、逼迫する、あるいは今後変転して何事かを見い出すにしても、そこに、漱石の鬱屈からも繋がっている流れがある。しかし世界との関係をとらえるときの目が、少なくとも私は明治の市井の人より曇っている。

何によって私の目が曇っているのか、私ひとりのことでもないようだ。このマンガにヒントはあるが、つまりは行動しなければ何も見えないようでもある。

今回の再読はあと1巻を残すばかり。今回が最もよく読め、最も面白く読むことができている。これはうれしいことだ。