「げんしけん」2

げんしけん(8) (アフタヌーンKC)

げんしけん(8) (アフタヌーンKC)

もうすぐ最終巻が出るんだなと思いながらなんとなく7、8巻を読み返してみた。
これは泣ける。
さらに、
「おたくかな」などとブログのタイトルをつけてしまったが、若干おたくのひとに失礼かなとさえ思えてきた。おたく文化がなぜ優れたものになるかもわかる。


同人誌というものには、一時「ふゅーじょんぷろだくと」の雑誌「コミック・ボックス」などを愛読していたのにもかかわらず、あまり興味がなかった。むかしは「アニパロ」などといわれていたかもしれん。「げんしけん」に共感しつつもディープな方のおたく文化には全般に共感も興味もない。特に「やおい」など。
しかし「アニパロ」が起爆剤の役割をはたしもしてひろがったであろう、広大な「コミケ」に集まる大変な人数に象徴されるおたくの裾野が、実は肥沃な大地なのだ。
げんしけん」後半に突如登場し、絶望と幸福の絶頂を行き来しながらものがたりの核になる荻上さんという登場人物が、8巻で作品を発表することの重さを実感する。と、いうか、その重さに押しつぶされていたところから、それを引き受け立ち上がろうとする瞬間がおとずれる。
なんというか、マンガはすごい。メディアとしてでもあるし、たとえば裾野としての同人誌文化にしても・・・。


最近「まんが道」をちょっと読んだ。それ以前とは違う新しいメディアとしての手塚治虫以降のマンガ作品群の草創期を描いており、新しい文化が生まれゆく様として鮮烈だ。その後作家の層はどんどんひろがり、多数の読者を擁する大作家から様々なレベルの同人作家までの巨大な山脈のような様相を呈しているといえるかもしれない。
げんしけん」の荻上さんは「まんが道」の満賀道雄のようには理想的に作家として成長してはこれなかったし、これからもさすがに藤子不二雄のようにも、もしかしたらプロの作家にもなれまい。あと1巻で終了するらしいが、そこまでに作家としての端緒に付くかどうかも怪しい。もちろん「まんが道」ではなく「げんしけん」なのだから必要ないのだが。満賀道雄はすでに子どもの頃から多数の読者に恵まれ、順調にそれを増やした。しかし、そうならなかった荻上さんが田舎の出身なのも、なにか対照的だ。
荻上さんの作家としての自意識の軌跡も、満賀道雄のそれと同様に鮮烈だ。
この小さな女の子はある種理不尽な世界に立ち向かう決意を手に入れる。堪え忍んできたこと、苦しんできたことで身に付いた力が、周囲を動かす。世界は、その決意にふさわしく変貌していく。それが自然だ。


私も絵が上手いとか作家として個性があるとか、そういうことを意識する美術の世界の片隅にいちおう生きてきたのだが、まあ、逃げてきたのだな。地方都市で細々とやっていることでそうなのではなく、表現することに正面から立ち向かっていないということでだ。
ずるずると年をとり、荻上さんの2倍生き、絵を描き始めてからの年数も荻上さんの2倍以上になろうけれど、また、私のやろうとしていることは「表現」的な要素が薄いことであり、そもそもそのことのためでもあろうけれど、ある種、真剣ではない。それでもなかなかそう簡単にはいかず、自分の意識を問い直さなければならない局面はある。そんなときに、こんなマンガを思い出せるのはうれしいことだ。


そんでまあ、あいかわらず「やおい」にも同人誌にも興味はないのだけれども、「げんしけん」でくりひろげられる無数の「まんが道」のことを思うとちょっと胸が熱くなる、とか・・・。