仕事について

現代の日本において「仕事」というと職業上の業務、あるいは職業そのものを指すようだが、ことばそのものの意味はもともとそうではなかったかもしれない。
たとえば農村で商品作物を作り売ることは「稼ぎ」であって、「仕事」というのはたとえば農道や用水の修繕など、村が機能するのに必要な作業である、というように区別される。と、いうようなことを数年前に読んでなにかしら重大な事実がここにあると思った。さらに現代社会を鋭く見直す内容が書かれていたはずだが残念ながら忘れた。
これら「仕事」を無報酬で行うことを疑わないのは、私たちから見てもある意味当たり前であると了解出来るが、「サラリーマン」の都市社会においてこういう構図はあてはまらなくなっている。都市では誰がその農村での「仕事」にあたることをしているのだろう。公務員だというのが最も簡単な答えとして導き出される。公務員の給与は「稼ぎ」ではないだろう。
そしてぞっとするのだが、ほとんどのひとが「稼ぎ」に従事専念しているのだ。私たちが物心ついたときから目の当たりにしているあたりまえの事だからぞっとするというのはおかしいのだが、農村のモデルと都市のモデルの非連続性に、極めて不自然な要素が忍び込んでいるように感じる。
実際は「ほとんどのひとが稼ぎに従事専念している」というのは間違っていて、農村のモデルでは「仕事」として必要とされているような業務が営利業者に依頼されて「稼ぎ」として成立している。公共事業のほとんど、各種サービス業のある部分がそうだろう。しかしもはや明瞭に区別は付かない。
その際、高度分業化、制度化された大きな社会の成立の上で貨幣が大きな役割を果たしていることは間違いがない。そのことで誤謬が生じているようでもあるのだが、公務員が給料が高いと僻んだり、その不満に乗って公務員の給料を減らしたり、しかしこれは公共のための「仕事」をしている自覚のない公務員にも一因があるようでもあるが、こんなことをしていては公務員もただのサラリーマンでいいということにならないか。
「仕事」をして「稼ぎ」としている民間の多くのうち、市民個々と直接取引をしない公共事業に「食い込めた」一部などは「稼ぎ」どころか皆さんご存じのように「食い物」に、しているようでもある。もちろんその「仕事」に従事している「サラリーマン」にとって、「稼ぎ」であるばかりであり、「食い物」にしているなにか得体の知れない人物達はなにか情報伝達に専念しているようなのだが。
と、いうような極端な例はさておき、「稼ぎ」として「仕事」をしているひとたちや「仕事」の専門家公務員のお世話になっているにもかかわらず、「稼ぎ」に従事している多くの市民たちは税金や「サービスの代価」を払っているのだから当然の権利を行使しているというつもりになってしまっている。公務員は「公僕」で、社会に奉仕する意識が欠けているというが、そういう意識を持つことに誇りを持ちにくい仕組みになってしまっているようでもあるので、同情を禁じ得ない。与えられた作業をこなすだけになっているのであれば同情のしようがないが、それにしても彼らだけに責任があるわけではないだろう。
と、いうわけで、都市社会からは「仕事」が消え、「稼ぎ」だけになってしまった。農村のモデルではなにが共同体を成立させているかというと、構成員ひとりひとりの「仕事」であるが、都市モデルでは事実上公務員の労働も含め貨幣を媒介として民間委託されたかのように「稼ぎ」に還元される労働によって社会が成立している。農村の共同体は構成員の意志と働きによって成立している。都市では構成員は「稼ぎ」をしているだけで、共同体は制度によって成立している。
ただ、これももちろん極端な考え方だ。逆に、40年前に「お父ちゃんがオリンピックを作ったんだ」というように、もちろん「稼ぎ」であるが家族を養う「仕事」であり、しかも国家的大事業、戦争が終わり世界の平和を象徴するオリンピックを作るという「仕事」でもあったようなユートピアもあった。しかし現在はそれが反転しているような様相だとも考えられる。単に、ちょっとした考え方の違いのようでもあるが、この国はもはや私たちのものではなく金のためのものといえる要素が強い。
本当は貨幣は大変優れた道具として使えるはずなのだ。社会制度設計に何か問題かあるのだろうが、しかし・・・。

こんな社会でなかなか「稼ぎ」に取り込めないのは家事労働であり、実はこれほど誇りを持って取り組める「仕事」は、現代になかなか見出せないかも知れない。日本の再生は家庭からかもしれない。いや、もうすでにファーストフードなどで取り込まれているか。ともあれ女性のほうが長生きなのは家事労働が健全な仕事だからだと、勝手に考える。
建築現場のモラルは伝統的に低いことが多かったとも聞くが、大工として人の住む家をつくるという「仕事」の意識をも持てれば、これほど誇りを持って取り組める「稼ぎ」はなかなかないだろう。料理人等も同様で、これらの仕事が脚光を浴び始める所以だろう。こういったあたりをきっかけにして、共同体のイメージを再生していくことが愛国心かも知れない。ただ私は国という境界はあまり大切にしたくない。国際的な問題は上記のことと結びつきつつ、さらに深刻だからだが。