音楽について

近頃ことさらに思い出されるのは、たしか奈良の寺の近くの畑の道で聞いたおばあさんの唄だ。子守唄だろうか。大学の美術の研修旅行で、なにかの寺を見たのだろう、その寺は京都だったような気もしてきたし、その唄そのものも覚えていない。しかし、それが聞いたことのない響きを持っていたことによる衝撃だけは思い出せる。いっしょに歩いていた同期の者と、顔を見合わせたような、そしてなにか喜ばしい驚きを共有したようなことも、あったような気がする。
おそらく、西洋の音階ではなかったのだろう。しかしすでにガムランなど、西洋の音階ではないものも耳にしたことはあったはずだが、そのときほどの驚きはなかった。
不意を付かれたこともあるだろう。音楽に、たとえば演奏会や、ラジオやCDで聞かれるものとしてしかほとんど接していないのだから、ふいに歌い始められたこと、あるいは聞こえ始めたことへのショックもあったかもしれない。

いずれにしろ、その体験は「音楽」というものを疑うきっかけになっている。
「音楽」は、「音楽」だが、日本において「音楽」というときは、ほぼ西洋の、それも古典派以降の音楽を指すことになってしまっているのではないかという疑問だ。そんなことを言うと、バッハすら「音楽」ではなくなつてしまうのだが、わざと暴論を展開した方がわかりやすいので、そう書いてみる。
古典派以降、つまり、ハイドンモーツァルト、ベートーベン以降の音楽は機能的和声という力学で、かなりの部分が説明できてしまうのではないかという恐ろしい考えだ。
音楽に詳しくないから間違っているかも知れないが、カデンツという安定に向かう力学のようなものがあるらしいのだ。これはたとえば水は高いところから低い方に流れることを利用して、高いところに水をくみ上げ、流してやるようなことを、「コンポジション」するのが作曲なのだ。
ポピュラー音楽では、実は「フェード・アウト」という終わり方だけで、最後のカデンツを反故にしてしまう。しかし、途中に「コード進行」というものが成り立つ上で、「本来カデンツに向かうはずだった」和声の展開法が用いられている。この形で、ほとんどあらゆる世界に西洋の機能和声システムが拡がり、移調が可能な平均律システムも付いていって、様々な「民族音楽」と融合してしまい、もとへは二度と戻れないような変化をもたらしてしまった。しょうがないのだが。
と、いうようなことが私の、「音楽」へのかなり重要な基本認識のひとつだ。


このように人類史上では原理的に限定されてしまった音楽を続けていること自体に、人間としてちっぽけなことをしているなあ、こんなことをやっていていいのかなあ、という疑問も生じ、この引力から離れたくなる。
思えば、雑音音楽のようなことをやっているひとも、そんなことを考えたかも知れない。そして、とても音楽っぽくないそんな音楽のなかに、私にとって楽しめるものもあったりする。しかしふと、古典派的な力学構造そのものは、雑音音楽の中にも様式をそっくり残したままで存在しうるような気がしてきて愕然とする。私の好きな雑音を使った音楽はあまりそういうものではないようだが。
また、わざとらしいが、バッハを除外したことを思い出す。バッハにはあまり上下の概念が感じられない、引力が感じられないし、特にフーガの類にはいわゆる古典的なコンポジションの印象が薄い。あるいはこれこそ完璧な構成なのでもあろうけれど、力学構造がない感じもする。それにしても、バッハも古典派への途を用意したのだろうが。
あるいは、2度の音程を重ねた全音や、半音といった音階を使ったドビュッシーにも、引力のイメージが乏しいことに気付く。「牧神の午後への前奏曲」のおわりは、水が流れ着いたのではなく、眠りについたようにも思える。とすれば、ワーグナーは、シェーンベルクは、というようなことにもなりそうだが・・・わからない。ケージはさらになにかちがうが、ケージの話しはまるで違う話題のような気もしてくる。
ポピュラー音楽と言うことになると、私がそこそこ知っているものではジャズという音楽が古典派の原理から離れる要素が強いような気がしてきているが、今のジャズが、以前よりその要素を強めているかどうかは、わからない。アメリカではポピュラー音楽がアカデミックに研究されており、バークリー・メソッドがその洗練の極致に至っているらしいが、これは機能和声のバリエーションの拡大を進めているようにも思える。ジャズを生んだブルースは、というと、実際には西洋音楽の影響が少ない、が、西洋の和声や旋律の決定的な影響だけは免れなかったものであろう。カデンツがあるのかないのかはっきりわからないにしろ。
中国や、インド、アラブ、大陸がつながった異種の音楽文化、ここでは日本ほどに西洋化は進んでいないかもしれない。が、アラブの、ある種の新しい料理のような、西洋的な音楽がそれなりの洗練を始めている成果は聞いたが、精緻なものになっていて、アフリカのロック的な音楽の洗練も思い出される。これらの地域の他の場所で伝統音楽は洗練を失わないままなんとか守られているかもしれない。あるいは危機に瀕しているかも知れない。守るか守らないかは、守り手の生活と深く関わる。あるいは、消え行くだろうか。

日本で守られているのは都会の、あるいはさらに宮廷の音楽のようなもので、民謡の多くはすでにある意味で西洋の音階になってしまっていると思われる。幼い頃からテレビを見ないくらしをしなければ、敢えて西洋音階から外れる意識操作をせずに伝統の音階は演奏できないだろう。私が近畿地方で聞いたような唄はもはや消え去ったか、ちょうど今、消える瞬間と言ったところであろうか。
日本の感覚的環境が、暮らしに密着しない、暮らしとともにあったとしても、与えられ方がメディア化したような音楽ばかりになってしまったことに、あるいは芸術という概念への疑問すらうかび、おばあさんのうたの印象が、自分のしていること全てにまで疑問を突きつけることにもなる。