「デモーニッシュ」なもの

「デモーニッシュ」なもの、という言葉はゲーテの著作の中にあらわれ、その後の思想に影響を与えたようだ。
先日読んだ今村仁司氏の『貨幣とは何だろうか』で、ゲーテの「親和力」をひきながら「媒介的なもの」を解説する中に、それを無効化し、人を破滅の運命へと巻き込むようなものとして現れていた。
キルケゴールニーチェなどという名前がこのことばにからんで出てきたが、よくわからない。ただ、私の持っているこのひとたちのイメージには暗い影のようなものがつきまとっている。それはどちらかというと避けたいものだと思ってきた。

今読んでいる吉田秀和氏の『モーツァルト』のなかで、モーツァルトの音楽の中の「デモーニッシュ」なものについて書かれていて意外な感じがしたのだが、これは20世紀のモーツァルトへの言及の中では一般的なようでもある。
この本のなかでモーツァルトは音楽技法の開拓者としての相貌は色濃くなく、そういう役割をしていたのはハイドンのほうだったというような事が書かれていた気がする。その部分を探したけれど見つけられないので、間違っているかも知れないが、モーツァルトは開拓者というより総合者であるというのだ。ヨハン・クリスティアン・バッハやハイドンが切り開いた(?)前衛的な(?)、モノフォニックな(?)音楽、大バッハポリフォニー、そしてイタリアのギャラント様式・・・それらが彼の音楽で結実し、そして「その後を継ぐものはない」という・・・という書き方を吉田氏はしていないので、間違っているとは思うが・・・。
しかしまた、それ以前の音楽と決然とちがうひびきが生まれているとも言い、それは私には俄にはわからないのだけれど・・・モーツァルトが何かに突き動かされるように作曲したようなイメージが浮かんでくるのであって、それがデモーニッシュな衝動だと言うことが出来るのではないかと思った。
それは「自己」が創造するというイメージとは違う。やむにやまれぬ、自分の中にあるものの、主体からは外側にあるもの・・・に「動かされる」というある種受動的なイメージがある。
晩年のエピソードは・・・あまり関心はないのだが・・・もはや作曲の注文もなく、作曲したものも理解されなかったという・・・あの燦然と輝く3つの交響曲さえもそうだったのか・・・どうしてあんなものを作曲し続けられたのかと思うが、せざるを得なかったのか。

かの時代、18世紀後半、たった200年と少し前にすぎない。ゲーテは彼より少し早く生まれ、彼よりあと40年も生きながらえたらしい。ルソーはさらに前、18世紀前半に生まれ、モーツァルト22歳の年に没している。
なんという時代だろう。最近私がぼんやりとした頭で考えることは、ルソーの思想らしきもの、その反映がその後の世界に決定的に影響を与えているようだと言うことだ。フランス革命は1789〜1799。モーツァルトはその始まったことくらいは耳にしていたのだろうが・・・ルソーの思想はその時に大きな影響を与えたという。そして彼は作曲家、音楽評論家のようなものでもあった。
現在の私にはその頃の時代の気分は不穏と感じられる。ルソーの音楽についての主張が、古典派やロマン派の旋律を重視する流れに大きく影響したともいう。革命の機運と音楽のシンクロニシティ。この時代には革命に巻き込まれたか、歴史から消えていった音楽家が多いとも伝えられている。
ルソーを突き動かしたもの、それは革命を呼び起こすような意識であり、「社会主義やナチズムなどの源流を形作るもの」と、Wikipediaの彼の項の前文に平然と書かれる種の何物かのようでもある。モーツァルトを突き動かしたものにもまた、似たような所があったかも知れない。
社会を変革ようという「デモーニッシュ」な思想の広がりが、未来を感じ取ってしまう芸術家の無意識の「デモーニッシュ」なものを揺り動かす・・・これはかなりこじつけだが・・・その近代の憂鬱は今も私たち、現代文明社会に生きる人間の集団意識のなかに響き続けているのではないか・・・。
「社会を変革しよう」と言う事に関して言えば、言葉に引きずられた行動をもたらし、血なまぐさい流血をもたらし、家族関係も生活も、あるいは友情なども破壊してしまう種の情熱として、今も世界で跋扈している。そして、実際の変革には寄与していないのだ。


何故私は芸術家であろうなどと考えてしまったのだろう。すぐに「芸術で生計は立てようとはするまい」とも考えたのだが、生計を立てることは常に、意識の上で重要ではなかった。
彫刻などを作り、演奏などをする時には、「デモーニッシュ」なものは極力廃したいとさえ思っている。感覚や感情に結びつきすぎた芸術、政治、そういうものとは一線を画していたいと思っていた。「ロマン主義」への若干の嫌悪感。
しかし、「やりたいことをやるのだ」ということに突き進んでいるわけでないためか、それを出来ないことの鬱屈にとらわれ、それも生計もあやうくすることに影響しているであろう事など、「デモーニッシュ」なものに自我が食われはじめている感じがする。創造力が枯渇しているのを感じ、また生活の上でデモーニッシュなものに振り回されることになってしまっている感じさえする。

モーツァルトの音楽の中に「デモーニッシュ」なものがあることには異議はないにしても、それが主要な要素ではないのではないかとふと思う。そんなものも理知的な構造に取り込み、結晶化させているという言い方は図式的に過ぎるが。
しかし彼の人生は主体的だったか。自分もまたどうかという気がする。
天才があるかどうかはこの際問題にしない。
しかし私の場合は「デモーニッシュ」なものを避けようとして逆にそれを呼び寄せてしまったのではないかという気がしてきている。死を忘れ、遠ざけようとすることで、死の恐怖、不安がより増すように。
また、流されるような受身の生き方をしてきたことにも思い至る。

モーツァルト (講談社学術文庫)

モーツァルト (講談社学術文庫)

08.1/1のミクシィの日記から転載。しばらく初出日の08.1/17のものとして公開していたが、1/1に変更。(10.10/11)