「貨幣とは何だろうか」

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

私はどうもお金があまり好きではない。
貧乏になってお金をなるべく使わずに工夫する事の面白さがわかったときには、ある種の幸福感すら感じた。お金を稼ぐための労働が好きではないので、仕事が来ないのが嬉しい時期さえあった。もちろんそんなことには限界がある。
そういう矛盾の解決には「やりがいのある仕事」を見つけるしかないと思うが、そんなものは日本の社会にあまりない気もするし、そう自由に仕事を選べるわけではない。
よく考えてみると、私はふつうの日本の市民にしてはやりがいのある仕事をしている方だと思う。辛く厳しい労働で身や心をすり減らしているひとが多いのに、私は単にわがままなだけではないか、と後ろめたくもなる。
今目の前にある仕事を、やりがいのあるようにやる事が大事なのだろうし、ないものねだりの傾向が強かったようだ。と、いう反省などは少しこの本に関係があるが、ほぼ関係はない。


著者は現代哲学・思想研究者だという。今年65歳で亡くなられた。
その事を最近知り、ずいぶん以前に買ったウォルター・ベンヤミンに関する著作を引っ張り出して新書版で読んでいた。哲学などは良く知らないが、ベンヤミンは気になっていた。そのベンヤミンに関するガイドブックはすっと頭に入ってきたわけではなく、内容もすぐ忘れてしまったが、世界を読み解く重要なヒントに触れられた感じは残っている。
歴史上、思想史なんていわれるように、さまざまなことが議論され、書かれてきたようだが、自分とは関わりがない、なにか焦点がずれているのではないか、実際の人々の生活から遊離しているのではないかと思っていた。形而上的、とでもいうのだろうか。これはプラトンあたりから始まったことが続いているようでもあるが、実際には知らない。
また逆に実際の経済活動や政治状況に即して語られている事も、語る事が出来るから語っているというだけの様にも思える。
本質だけを語ろうとしすぎていたり、本質から離れた現象の表面をなでているだけの言葉だったり、というとらえ方が適当かどうかはわからないが。
その状況そのものに果敢に挑んでいるのがベンヤミンであったり、今村氏であったりするように思えた。
現代の思想家、あるいは過去からのすべてのそういう仕事をしてきた人はそのような挑戦を続けてきたはずでもあるから、単に好みなのかも知れないが。私にとって、その、いわゆる「アクチュアル」な感じ。

これは「ちくま新書」の最初の一冊。これもずっと以前、12、3年前に買ったものをやっと読んだのだが、予想以上に刺激的であった。
「貨幣」に関しては思想史上本質的に語られてきた事がない、あるいは語る事が避けられてきたとさえ思える事を浮かび上がらせている。それは、貨幣が「媒介形式」であることの性質によるものだ(?)という。それは「死」と結び付けられる(!)。
形而上的な、純粋性を求める(?)思想の歴史の上で、貨幣的な、媒介的な言葉(?)はその直接性をにごらせてしまうことで、忌避され、憎まれてきた(?)という。
貨幣のような媒介的性質が思考を支配すると、空虚な言葉が出現するのみであり、そのことを考えるとプラトン、ルソー、あるいはマルクスなどの懸念(?)は妥当のように思えるが、彼らが望んだように貨幣や、媒介的なものを「実際に」廃することは不可能であり、結局は暴力、死を呼び込む事につながる、という。
20世紀における共産主義が貨幣の消去を望み、さらにナチズム、ファシズムも直接性を求める点で共通しており、圧政を行うというかたちになり、未曾有の大きな犠牲を生んでしまった・・・と、簡単に書くと極端で受け容れがたいが、貨幣への思想の、社会の態度の変化の歴史を考えるとうなずけることのようだ。
ただ逆に、マルクスが予言したような貨幣原理の蔓延が人間性を失わせてしまうというような事態(これも良く知らないが)、別種の危機はその後実際に20世紀後半から21世紀の現在に現出しているようであり、その簡単には解決できない状況を、媒介形式を廃していくというような直接的な方法ではなく探る事が人類にとっての永遠の課題・・・ということのようだ。
というとただあたりまえのことを言っているようでもあるが、近代的な知性、あるいは人類(主に西洋)の思想史上でいかに媒介的なものを扱い損ねてきたかということを見事に浮かび上がらせている点で、極めて有効な知的指標になり得ている(?)と思う。

いちおう芸術を志す立場としては、貨幣と似た媒介的なものとして、言葉ではなく文字、詩的なものではなく散文的なもの、音楽ではなく絵画、などが挙げられている事に注目できるし、あるいはある時代、絵画が抽象を志向し、詩が純粋性を求めた事があり、そのことに経済状況の変化が関わっているなどということも瞠目に値する。明快すぎて困る。いままで難しいことばで何を語ってきたのか。

(ここから私の連想)
「死」に関して言えば、貨幣を廃そうとして死を呼び込むのとは逆に、貨幣に、あるいは媒介的な知のあり方に頼りすぎ、死を封じ込めようとしすぎ、死から目をそらし、その事で別種の危機を呼んでいるのが現在の私たちを取り巻く状況のようでもある。
死も当然完全に封じ込める事などは出来ない。そのために意外な形でこぼれ出すように私たちの前に現れてきている様にも思えるが、それは先進諸国を中心とした状況であり、それが中進国に広がり、その外側により多くの死をもたらしているというような連想も出来る。
実際の現象に、知的(優れているという意味ではない)流行(数百年続く巨大な)状況が関わっていると考える事もできる。


私の生活にも少しは関係があるかも知れないが・・・。