「時間と自己」

時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

心理学(精神病理学?)と哲学のあいだで書かれたような本。16、7年前に買ったとおぼしき中公新書だ。
私は若い頃は、精神的に不安定だという自覚があった。今思うと実はたいしたことがなかったような気もするのだが。それと知的興味とが交点を結んだところに木村敏氏というひとが浮かび上がった感じがしていた。ただ、難しすぎて読み終えられなかったか、読み終えていたとしても言葉面をただなでただけだったはずだ。
しかし中年というような年齢にさしかかり、そんな年齢になって職業と健康といちどきに不安定になったことで鬱がかった状態が長く続いた。良くなってきたところで、ずいぶん前に買ったこの本を引っ張り出してきた。


時間をうまく使えない。時間と上手くつきあえない。
自分というようなものがはっきりある気がしない。
これらはふつう別のことにしか思えない。しかし、書店の棚にこんなタイトルを見つけるとそれがいきなり結びつく。


名著だ。
ただし、ほとんどの精神的に不安定なひとに効果があるとは思えず、哲学的な興味から精神分析に関心を持ったような人でないとわけがわからないかも知れない。でもじっくり読むと効果があるかも知れない。が、実際に不安定になっているひとがこんな難しい本を落ち着いて読めるかどうか。しかも、哲学が好きでも実際に精神的に不安定になったことのない人は理解しにくいかも知れない・・・。
いまの精神科や心療内科のセンセイのほとんどは、「こんなものは哲学書で、臨床に役立たない」と、言うだろう。日本で増えている鬱病は、必ずと言っていいほど投薬を伴う治療がなされているようだ。それは悪くない、人を救っていると思う。ただ、それでも精神科医の人ならこの本を一度は読んだ方がいいのではないか。・・・もしかしたら初歩的な教科書になっているかも知れないけれど・・・そんなことはないな、きっと。


フロイトユング精神分析は、面白そうだったがにわかに信用ならない感じがしていた。木村敏のほうが何倍も信用できる。しかし、これは単に私の性格、または好みのためかも知れない。私の場合は、精神状態の回復の時期に、それをしっかりとしたものにしてくれた。


「もの」と「こと」という言葉の違いから始まる。
それは、「過去・現在・未来」と流れる時間=計測可能な物理的・科学的事実と思えることが、それを捉える自己というものを考えると自明とは言い難いことに繋がる。そのことが、精神病理とのつながりで示される。
そして、それは、「死」と関係している。


生きると言うことがすこしはっきりした気がする。