自己言及のパラドックス

「私はうそつきだ」というのはその「私はうそつきだ」という点においては正しいことにはならないという・・・これはまあ、なんというか、こういう言い方はしなければいいのだが、このことばが日常、現実に吐かれた(とする)ときに、ふつうの言葉と違った様相を見せるのも確かだ。うそを言ってばかりいる人が、「私はうそつきだ」と、言う時の意図にはどのような場合が考えられるだろう。いろいろありすぎて例示する暇はなさそうだ。
逆に、普段うそなどつかない正直な人間がそう言うときには一挙に悲壮感が漂う。これにはパラドックスはない。時間的な問題で解決できるのだ。時間は不可逆なので、一度うそを付いた人間はうそに汚染されるという考えの持ち主にとっては、パラドックスではなく、一度うそを付いて以降はうそつきなのだ。
はたして、そういう生き方はどうかと思うが。・・・ん? やっぱりパラドックスはあるな。
しかし、通常は言及する時点と言及される事態との時差の混乱は容認され・・・それよりも、言及する主体は実際の主体のメタレベルにあると考えれば一気にパラドックスは解決・・・。

「自分は狂っている気がする」という場合には、自己言及のパラドックスがより深刻に、より複雑になり、そのことばと実態との整合性が、検証不能の度を深めることになる、ことに気付いた。これは実際に「ぐるぐる思考」に陥って、ふと、ひょいっと「考えから抜けた」時に思いついたが、抜けた途端に、もともと何を考えていたか忘れてしまったが・・・。
いずれにしろ、精神疾患がかかえる困難の一つだろう。これには「他人」が介在することが抜け出すきっかけになりそうだが、さにあるまい。ある種の他人との固定的な人間関係こそがこの種の精神疾患の思考の行き詰まりの主因であることが多そうだからだ。
病気に関する専門家が役に立ちそうだけれども、これも精神疾患に関しては誤った診断が常態になっている医師が多い可能性がある。専門家の落とし穴が大きそうだ。うつ病などは投薬で症状そのものは一時的にでも改善するだろうから、カウンセリング等の医師の実力は計りかねるのではないか。また、患者との相性も・・・。

こんな事ではなくとも、何か「自分というものを計算に入れた途端に何も言えなくなってしまう」感じ、別に何も言う必要はないのかも知れないが、そんなことでいいのかという感じ(何に関してこう感じていたのか忘れてしまった)に、このことが関係している気がする。
その時にとりあえず自分を「客観的立場」らしき場所においたつもりで考えを進めればいいようだが、無責任な感じがする。
その無責任な感じを避けたいために自ら進んで何かをし、その延長上でしか考えが進行しないだろうというようなことをふと考えた様な気もするが、しかし「そんなことのために」なにかすることが多分におかしい。
しかし、こういう病的な考えと行動に陥っていた。
それで、私は、ある時「悪い噂の多い」会社に勤め、ひどい目にあったのだなあと思う。
これは「神経症的な」考え方、行動様式ではないかと言う気がしてくる(ほんとうはどうかわからない)。言葉を続けるほど、考えれば考えるほどよくわからなくなり、どんどんおかしくなっていく。そんなことにこれらのことが関係があるような気がするが、わからない。
その会社である種の社会通念に従って行動することを覚えたようだが、それが自分を苦しめ続けたようでもあり、そもそもそういう病的な考えに陥るような自分の性格はなんだ、それ以前からおかしかったようでもあるし、そのおかしいことを検証する上でこの切り口が合っているのかどうかわからない。

いずれにしても、「書き言葉」の、抽象性ゆえ、抽象化されたフィールドで言葉が検証されるために、自己言及のパラドックスがより問題になるものでもありそうだ。
話し言葉はもともとその話される場面のみに属するのでかなり限定的な意味合いを持てるが、それを書き留めると、もともと持っていた具体性が省かれてしまい、状況が悪化するだろうか。
書き言葉でも筆跡が露わな場合は具体性が付け加わるのだが、とするとこのようにデジタル化された抽象レベルの高まった言語の場合にはパラドックスが問題になる可能性は増えるのか。
ただしかし、この地球上で、ネットワーク上で、例えば日本語を使用したという具体性などをもとにして検証可能だ・・・?


ともあれ、直感の力を忘れるわけにはいかない。
これを強調してしまうと、根拠なしの行動が正当化されてしまうが・・・生きていることそのものが考えていることだ、というようにならないために行き詰まるのだろう。

脈絡が希薄な状態で書き散らかしてしまったが・・・。


ミクシィの日記から転載。(10.10/11)