病んだ魂

人間というものはひとりでは人間であり得ない。「人間」という単語が人と「間」という語によって合成されているということから導き出して語ろうというわけではなく。

精神を病むと言うが、実はその当人が病むだけではなく、社会との関連性も病む。
また「精神」というと、何か非物質的なもののように感じられるが、そうとも限らない。病んだ様態では、ある種身体的、器質的にも病んでいることになると思われる。
そんな、何か情報的、物質的、総合的に病むのだ。それに特徴的な様態があって極端なものが躁鬱病統合失調症のような精神病だろう。ただ、社会の変化によって精神病の流行のようなものが変わると言うし、おそらく精神医学の様態が変化すると病気も変わる・・・。

魂という言葉を使ってみたが、「精神」と言うよりも非科学的な感じがして、かえってその指し示す範囲を拡げられるようにも思える。「心を病む」と、普通に言った方がいい気もしたが、しかしふと思うと、「心」というものは何なのだろう。

いずれにしても、特徴的なのは求心的な感じがしてしまうことで、あるひとの「中に」ある感じがするが、心とか魂、精神というものはむしろ人の外にあるというイメージがふさわしいような気がしてくる。
表現ということには「中から外に出る」というイメージを持ってしまうが、これはあるいは危険なことなのではないだろうか。
今、私がひとりで、誰ともしれない人が読むかも知れないこの文章を書いていることは、どういう種の表現なのだろうか。


私の表現のスタイルというものがあるような感じがしてきて、このわけのわからない文章は私の彫刻に似ている気がしてきた。一般的に「表現」ということには中から外へ表出するようなイメージが持たれていると思うが、優れた表現は決して自己表出といった感じではなく、例えば人と人との間、または社会の中に浮かぶように置かれる、現れるものではないかと思うのだけれど、私の場合は表出的なものではないのだけれど、内的な感じがする。しかし、個人的ではない。
と、書いていることは自分のことを語っているのだから個人的のようではありながら、何か常に一般化しようとしているような気がする、と、まるで他人のことのように書いては見たが、どうだろうか。自分を一般化しようとしているという思い上がったことになるのだろうか。

おそらくこれを読む人は私の彫刻に接したことがないひとだけで、これからも接することはないだろうし、そして自分の彫刻を誰かに見せたいとはあまり思っていない事にも気付く。
何か「やらなければ行けない営み」としてやっている気がしてきたが、はたしてどうしてそう思い、そんなことをしているのだろう。「面白い」からやっているのではあるけれど、「楽しい」とはそんなに思えない。どちらかというと辛いな。

魂、心が病んでいるとは、関係性も病んでいることだと思うのだが、こんな作品制作のスタイルも病んでいるのかも知れない。
そう書くと彫刻そのものも病んでいるようだが、そうではないような気がしている。たとえ作品が病んでいることと関連性を持っているとしても、ある種関係性の回復へのプロセスを形にしたような働きをするのではないかとなんとなく考えている。えらい自信のようだが、実は最近の作品には全くと言っていいほど自信がない。それでも。
作品のフォルムにはテーマとかモチーフとかを廃している。あるのは材料に立派なものを使わないといったルール、というか、好みか。
あ、でも「悲しみ」が通奏低音としてあるかも知れない。ネガティブ。
貧乏な家で生まれたし、貧乏なほうが落ち着くのだ。ただし、今の日本では、貧乏だということは無能だということと結びつく。または、社会に役立っていないということにも近い。それでも、貧乏くさいものを使ってものを作りたいなあ。無能でもいい。人の役になんか立ってたまるか!

これも病んでいるのだろう。

昨冬、今冬と、「うつ」的な状態になっていたようだと、これは「季節性うつ病」なるものではないかと思っている。実際に病んでいるようなのだが、そんな「症状」が出る前から、ずっと以前から社会的、関係的に病んでいたのか、特殊な社会との関係の仕方を続けたために、何か精神に無理がかかっていたのかもしれない。
それは私がヘンだからであり、ヘンな自分を上手く扱ってこなかったからだ。
それが、もしかしたら限界に達してしまったようだけれど、そのことによる変化、おかしな状態で見えたものから、何か生まれるかも知れない。

何人かの人、ある団体にある種の迷惑・・・普通に理解できる感じのものではない・・・をかけた。「迷惑」という感じでもないが。それも病の一部だったという言い方をしていいかどうか。しかしそういう感じがある。責任回避のようだ。