才能について

「残念ながら」私は自分に「何らかの創造性」という「才能」があるというように感じてきた。
そのことの傲慢さも感じていて、自分やひとの「才能」について語る事はそれなりに注意深く避けてきたつもりだったのに、その驕りが現在の自分の行き詰まりを招いてしまったようだ。その、注意深さだと自分で思ってきたことまでも何らかの才能であるかのようにすら感じてきたのであって、「自分の才能を信じ」たりはしなかったし、自分や他人の才能について語ることは避けてきたつもりだった。が、才能について考え続けていた。

最近「自分には音楽の才能がない」などというようなことを良く考えている事に気付いた。驕りを避けていたつもりで、卑屈さがあらわれ、それが驕りの裏返しだと気付くことになった。気付いても、これからもそうだろう。
音楽に関しては自分の求める十全な才能がない事を嘆いているのであって、特に正確なリズムを刻めない事を必要以上に気にし、「自分には才能がないのだから」と練習もあまりしない。基礎練習がきらいなせいもあるが。
ある種、変なリズム感の才能はあると思っている。ひとの演奏を聞いて、小節を意識しないリズム感覚が嫌だなあと思い、そういった意味でのリズムの才能ならすこしあると思っている。でもそれはリズムというより、(主に)西洋音楽の教養の類いかも知れない。ああ、私にあるのは、教養ばかりで、才能はないんだ。
でも、「だからどうした」ということだ。プロじゃないし。でも合奏の時にはかなり障害になるな。
とにかくそれを、「才能がない」という気に仕方をする。

ここで変なのは、「リズムの才能がない」と決めつける、さらに「自分に何らかの創造性という才能がある」という自分(もうひとりの自分?)はいったい何様だ、ということになる気もするが、しかしややこしい話だな。
「何様か」、というと、「ヒョーロンカ様」なのだということになり、私には評論家的な教養と感覚、知性という、実はうれしくもなんともない「才能」があると思っている、しかも強固に。しかしその、「評論家の才能がある」と考えている自分は何様なのだろう(さらにもうひとりの自分?)。

私は病気です。