札幌「マンドリン音楽祭」

札幌市民芸術祭の「マンドリン音楽祭」を聞きに行った。
一昨年まで数年続けて(片隅で)出演していた。出演した時は大抵自己嫌悪に。昨年と今年は聴衆に。

以前出演もしていた社会人中心の合奏がお目当てなのだけれど、ソロが面白かった。某団体のマンドリンとドラのトップそれぞれギターを従えた(?)演奏、「演奏のすばらしさ」を感じた。構成力があるのではないかという感じが私の及びもつかない高みを感じさせた。傷は少しあるが、構成のみならず魅力も備えた楽しめる演奏。マンドリン独奏では、じつは珍しい。ただ、ギターの音というのがどうもぼんやりとして聞こえるのはマンドリンとの音色の対比でしょうがないのか。

学生の演奏はうまい。が、ここぞという盛り上がりに少し欠ける。若いんだから、と、いう自分はおそらく盛り上がりしか考えられない演奏しかしてこなかったので、遥かにレベルが高い気がする。ギターはもっと鳴ってもいいのにな。あと、ベースはうまいけれどうるさい。が、良くあわせている。社会人よりいい。

問題の社会人中心の合奏、現在の北海道を代表する作曲家、木村雅信氏の、自身の指揮による演奏。大曲。後述。
続いて、マンドリン連名北海道支部会長、山下氏指揮の、新しめの日本人作曲家の曲と、おそらくここ十数年もっとも頻繁に日本で演奏される曲、「パストラル・ファンタジー」。ギター学生よりは鳴るがやはり物足りない。ベースは社会人みんなタイミングがあわないのが不満。社会人では特にベーシストが練習場所の確保が難しいのと、指揮者の配慮不足かと。とか、書く必要のない事のような気もする。これを書く私の性格の悪さ。気にしてるんだろうな・・・。ごめんなさい。でも、どうせ誰も読まない。


私が書きたいのは曲についてだ。まず学生。
アマディ「降誕祭の夜」はいいなと思った。一楽章、すっと気持ちに入って来る音。でも、二楽章、三楽章、ちょっと平凡か。しかし、音楽を楽しめる。
小林由直という作曲家、メロディーらしいメロディーが、ダサい。その反復の構成もダサい。中低音のオブリガード(?)に「ナウシカ」と全く同じ動きがある。最低。幻滅。このひとは「アレグロ・フォー・コンサート」とかいう曲でホルストのパクリをやって、お蔵入りにしたはずだが。しかしメロディーっぽいものがない部分は面白い。静かに和音が続くところ、一度終わったと思って始まったあとまた始まる部分の変な音。しかししつこいが、構成は恣意的で必然性がなくあきれる。こんなに音をうまく扱えるのに、なんでこんなへんてこな構成・・・。

社会人の選んだ曲、木村雅信氏の大曲も含め、小林よりははるかにまし。ただ・・・。
木村さんの「ユーラシア」。意気込みがからまわり。「op.400」という作品番号にこのタイトル。記念碑的作品、それに相応しい内容。が、限られた練習時間のための消化不良の演奏、一般の聴衆につたわらない。ただ、限られた練習で難解な曲をよくもここまでという演奏だ。曲のスケールには、このくらいの大編成もぴったり。が、聴衆にはそんな裏舞台は無縁。短い拍手。御大自らの指揮もいいが、「しょうがない」。ちょっと気の毒だけど。そして、文化の前進にはこんな局面があってもいいと思うけれど、現実は残酷だな。氏の名誉にかけて付記させてもらうと、木村さんは決して聴衆を無視した作曲家ではない。「ユーラシア」同様難解な「コンチェルト・マドリガーレ」の、名演奏を昨年聴いたが、リハーサルをふんだんに重ねたと思われるプレクトラム・アンサンブルの演奏は、受け入れる準備のある聴衆の意識を開かせたと思う。また、氏には「ダンス・パッション」「イタリア組曲」といったよりわかりやすく、親しみやすく、それでいて音楽の根源に迫る曲もあるのだ。氏は学生の演奏する小林の曲を観客席で私の近くで聴いていた。変な部分に私が首をひねって、ふと横を見ると、真摯な表情で耳を傾けていた。その後休憩になり、私はトイレに向かったのだが、その前をこれからステージに向かう木村氏がひとりで歩いていた。これが北海道の作曲界を背負ってきた背中だと、私は感じたが。

次、邦人作曲家を取り上げる、この人も北海道のマンドリン界を背負う矜持を持っていると思われる山下氏のステージ。
イタリア、ドイツ、すべて有名な曲を取り上げる事が多い。日本の作曲家に関しては、山下氏は武井氏の曲を北海道で取り上げ、聴衆に訴える演奏をできるいまはたった独りの指揮者かも知れない。あるいは、全国的に見ても・・・。
と、いうだけではなく、あたらしい海外、国内の曲をも取り上げ、またそれをやはり聴衆に伝える気迫をそなえた、魅力的な指揮者だ。ただ、去年聴いたアマディの「海の組曲」、リハーサルをたぶん「コンチェルト・マドリガーレ」に譲ったと思われる消化不足の部分もあったが、イタリアものが苦手なのでは、とも、ちょっと思ったが。
閑話休題
宍戸さんという新進気鋭(?)の作曲家の「DON-PAN」選曲意図はよし。が、作品はいまひとつ。小林よりはまとまっているし、面白い音色を聞かせるが、耳なれたメロディーを、調子に乗ってこねくりまわすちょこざいな曲。嫌いではないが、ひとびとの間に息づくメロディーをなめるな。
「パストラル・ファンタジー」。山下さんがやるべき曲をやったと思う。いい演奏。学生にはこうはいくまい。が、思ったより平凡。いくつか、はっとするところはあり、さすがと思ったが、期待が大きすぎた。と、書くけれど、満足のいくもの。がっかりしたのは、学生があまりのっていなかった姿が見えた事。山下マジックが伝わらないとは。全体にはたいして影響はなく、学生とはえてして権威(「パストラル」という曲も)にそっぽを向きたいものだし・・・。でも、ちょっと、学生にがっかり。
問題は「パストラル・ファンタジー」という曲。演奏者にそれぞれのイメージがあり、たぶんそれらはちょっとダサい。山下氏は、それらのイメージと、自身の理想のイメージとの間の、「いい意味で」妥協点をとったと思う。その意味で「パストラル・ファンタジー」が有名すぎることもうらまれるが、しかしその最大公約数的イメージを利用してエネルギーにもしていただろう事、それが山下さんの矜持をもってしてなし得た事とも思うが、たぶん考え過ぎだろう。

アンコールは長過ぎ。
木村先生の、たぶん、「タンゴ・シンフォニカ」もっとリハーサルを重ねたら、絶対客席が湧くだろうに、そして、「耳が開かれる」曲だろうに。
山下先生の「夏は来ぬ」。「タンゴ・シンフォニカ」が長かったのでさらっとした曲をやるかと思ったら変奏曲。「DON-PAN」よりいいが、とにかくアンコールには長いのだ。
(私の日記も長過ぎ)

でもまあ、楽しみました。
関係者の皆さん。検索等で辿り着いてお読みになり、気を悪くしたらすいませんでした。楽器が下手なエセヒョーロンカ的マンドリン、音楽愛好家でございます。