秋葉原通り魔殺人事件について

6月8日におきた、近年では特に被害の大きかった(という表現が適当かどうか)「通り魔」殺人事件。
規模やその行われた場所の象徴性(わたしはあまり深い意味を感じない、たとえば渋谷でも良かったのではないかという気もするが)で関心が高まっている気がするが、動機が、同様な事件全般のなかではかなり「理解しやすい」という点でも際立っているのではないか。

ある意味「猟奇的」ではない。象徴的な場所だが、逆に趣味的な、あるいは性的な要素は感じない。「えっ、あの人が」というようなものではない。一緒に働いていた人の談話は、職場での扱われ方が「辛そうだった」というような感じでもあった。スイミングクラブでの発砲事件や、アパートでの殺人した後に死体をかくしつづけた事件などというものよりは、はるかに犯人の心情を想像しやすい。ただし、似たような境遇にある人ほどそうなのかも知れない。私も職を転々としたので、ある意味、似たようなものだ。

犯人はいわゆる「ひきこもり」よりは、ずっとちゃんと社会で働いて生きようとしてきた人間だ、という言い方もできなくはない。もしかしたらプライドが高く、自分の境遇は能力に見合っていないという僻み根性があったかもしれない。そして、そういう場合に精神を病んでいくひとも多い。その手前の人というのが、もっとずっと、今はものすごく多いかも知れない。
もしかしたら、自分の行動が多くの共感を受けるかも知れないという事を意識していたか、無意識に感じ取った事が犯行を後押ししたかも知れない。



そして、実際に共感するものも多いらしく、それは自分たちの心情を代弁してくれたかのように思っている人たちの声なのだろう。

ある社会の集合体みたいなものが、秋葉原の通り魔殺人犯によってより明確にイメージできるようになった。彼に共感できると思った人が、社会の大部分と自分たちの利害が対立するようなイメージを持った。
殺人犯に共感する人にも様々なかたちがあるし、実際の行為に関しては絶対に許せないと考えつつも、例えば「自らの意志決定で生きている実感が持てない」事については痛いほど共感してしまう、そんな人が明晰に思考し、表現できればいいが、その矛盾に着地点を与えるまでに粘り強く考える余裕を、この社会の構成員の多くはおそらく持っていない。そんなことで両極端に振れたまま表現する人が多くなっている気がする。そして、そう表現してしまった事にひきずられてしまうこともあるかもしれない。