ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」

ペット・サウンズ

ペット・サウンズ

ふと、「キャロライン・ノー」が聴きたくなった。
「ペット・サウンズ」を引っぱり出してきて、最初から聴く。名曲「神のみぞ知る」、最後の3曲「駄目な僕」そして、「ペット・サウンズ」から「キャロライン・ノー」。

レコード会社のプレッシャーのために精神的に破綻をきたし、ドラッグに手を出すようになってしまったブライアン・ウィルソンが、ビートルズの「ラバー・ソウル」に刺激されて着想し、ほぼひとりで作ったアルバム、らしい。1966年5月、私の生まれる4カ月あまり前、42年前のものだ。

こんなふうに何か音楽をCDで聴きたくなることは、最近、いや、ずっとなかった。もう3、4年にもなるだろうか。
その理由はわかった。その間もそれなりに音楽を聴いてはいたが、ほとんど「演奏するのに使える曲はないか」とか、ある種音楽の勉強になるようなものとして聴いてきた気がする。ネタ探し? あとは今まで聴いた事のないものを求めて。または、今まで知っているものでも、そこから何か発見できないかという下心を持って。
ある曲を聴きたくなって、というのではなく、「音楽を聴こう」と、思って、それから「何を聴こうか」考える。
何をやっていたんだろう。いや、別にいいのだけれど。

若い頃にむさぼるように音楽を聴いていた事を思い出した。
「キャロライン・ノー」が聴きたいと思いながら家に帰る途中、車のラジオで、ビリー・ジョエルの、「ザンジバル」という曲がかかっていて、この曲の入った「ニューヨーク52番街」というアルバム(当時はレコード盤だった)をくり返し聴いたことを思い出した。
あとは、大瀧詠一「ア・ロング・バケイション」。

「神のみぞ知る」「キャロライン・ノー」、情けない男のうた。そして、大瀧詠一の「恋するカレン」。
失われた恋は決して取り戻す事はできない。メランコリー。過去にとらわれる病。でも、そんなふうに片付ける事は本当に仕合わせを手に入れる途だろうか。急いで手に入れた宝石は手の中で土塊に変わる。
「駄目な僕」、途方に暮れる不器用な男のうた。彼が途方に暮れるのは愚かだからだろうか。

ビートルズに、「ヘルプ!」といううたがあった事を、最近しきりに思い出す。「アイム・ア・ルーザー」なんてうたも。
思い出す人も以前ほどはいなくなったにしても、依然、複製技術時代の音楽史上最大のヒット・メーカーの、軽快な初期のポップ・チューンの代表作のひとつは、「助けて!」というものだ。

それからちょっとして、ビートルズのイギリスから大西洋をはさんだアメリカで、脳天気なサーファーの音楽を作っていたナイーブな青年が心を病んで、限り無く美しい情けない男のうたをつくった。第2次世界大戦後20年ほど経っている。今やそれから40年あまり。

最後の「キャロライン・ノー」へのインターミッションのような、インストゥルメンタル曲「ペット・サウンズ」の、ゆったりとしたリズム、アルバム中それだけが「ビーチ・ボーイ」っぽいかもしれない。しかし、ルーズな雰囲気はやはり、らしくはない。美しい「キャロライン・ノー」へつづき、アルバム全体は余韻を残して終わる。

悲しみ、失望、そのなかに真実があり、そこからしか「救いの途」はない。