原子爆弾投下のあとに訪れたこと

今日のNHKスペシャルで、ジョー・オダネルというひとについてやっていた。
原爆投下後の長崎の状況の調査スタッフの一員であるカメラマンとして訪れた彼は、調査用のカメラではなく、禁じられていた自分のカメラでの撮影を行い、それをこっそり持ち帰った。何かに突き動かされるように、禁じられていたのに被爆者との接点を持ち、禁じられていた人間の撮影も行った。しかし、封印していた。
罪悪感にさいなまれ続けていた彼は、あるきっかけでその封印を解いて以来、その写真を多くの人に見てもらうために動き続けたという。
アメリカで原爆の投下に疑問を突き付ける事は、アメリカ人としての誇りにナイフを突き付けるようなことなのかもしれない。多くの非難にさらされ、不可解に思った妻は苦しみ、離れていく。和解に近い状況は彼の死後、彼のあとを継ごうとしている息子への一通のメールとして訪れただけだ。彼女が理解を示しているのは、「彼は息子を誇りに思うだろう」ということ、多くの人の心を動かした事であって、幸せな家庭を破壊した事を受け入れられるようになったわけではない。
彼が封印を解く前に、大統領について写真を撮っていた彼はトルーマンに原爆投下について尋ねたらしい。トルーマンは顔を真っ赤にして「自分の判断ではない、もとから決まっていた」と言ったという。

昨日は昨日で残留放射線による被爆者の認定問題について放送していた。
おそらくはあらかじめそのような問題はないという計画であったために、入市被爆者の実際の症状は見て見ないふりをされることになった。そういう計画だったためにオダネルらも調査のために現地入りしたものであった。彼も後に発症したという。

ヒューマニズムの世紀はこれらのことの反動としてあるものなのか。その建て前、人間も国家も人道的だという幻想のために考えないようにされている事々。
アメリカ人は日本人が中国や朝鮮にひどいことをしてきたことからも原爆を落とすのも当時はやむを得ない、むしろ正当なことだったと考えているひとがどうやら今も多いようだ。
そう考えないと愛国心を保つ事ができないというように感じられる。あらかじめ社会が期待するように考える。人間というものはそういうものらしい。適応というのがそういうことで、生きる事だ。
日本人の多くは中国や朝鮮にひどいことをしてきたと考えない事で愛国心を保とうとしている。
原爆投下が正当だという考えも、不当だとばかりは言えない。帳じりがあわないと困るのだ。

そんな国家を精神的な支柱にし、思考放棄しようとしかできないという、人間というのはおおかたではそういうものであり、そういう人たちとともに働き、生きていかねばならないものなのだ。