aiko

aiko、という芸名(?)の歌手、というか、シンガー・ソングライターというか、そういう人がいる。
などともったいつけた書き方をせずにふつうに「aikoの曲が」などと書いてもいいのだが、そうだろうか。

そのうたは若い人向けであって、いまや私は若い人ではなく、若い人向けの音楽を聴くこと自体は別に悪くはないとは思うものの、問題はそれが恋愛の機微をうたったものであることで、いまここで「恋愛の機微」などと書いていることがそもそも若者のラヴ・ソングについて書く上ではなはだ似つかわしくないことこの上ない、という仕儀になるのだが、さらに「ラヴ・ソング」という言葉すらもかなり的はずれなのだろう。

しかしなぜか私はその自分には似合わぬaikoの、たとえば「花火」などといううたが結構好きだったのだ。
夕方、仕事の帰りの車の中のラジオでその曲がかかり、ここで引用すると著作権的にどうなるのかわからないが、「夏の星座にぶら下がって、上から花火を見下ろして」という部分は何度聞いても「しびれてしまう」などと思う。このフレーズを聞いた途端、意識が夜空に舞い上がり、頭の中いっぱいに花火が拡がる。残念ながら恋の甘さをリアルに想像することはできないものの。イマジネーション、そのスピード!
しかし「花火」よりも好きなのは「ボーイフレンド」のほうで、歌詞も「好きよ、マイボーイフレンド」くらいしか思い出せないのだが、ある意味愚にもつかない内容だけれど、真実があるのかもしれない、とさえ思う。
ふつうのひとよりは、私はラブ・ソングは好きな方ではない。同じ恋愛なら失恋の歌のほうがなじむ。それがなぜかここまでベタな甘いうたを、aikoの場合は無条件で受け入れたくなってしまうのはどうしてなんだろう。

音楽的にはシンプルな、・・・ロックといってもいいくらいだろうか。
一時期小室哲哉というひとの曲がヒットチャートをにぎわせていたとき、その転調を初めて聞いたときから嫌悪感を感じたのだったが、aikoの場合は好ましいような気がした。
特徴的なのはヴォーカルのグリッサンド(?)。12音の、長調短調の調性の外の半音階は何か重力からはずれた感じがして好きなのだが(そのわりにはワグナーは好きになれないが)、その半音の間の音は四分音というのだろうか、確かブルガリアの合唱曲で聞かれるんだったか、これも好きなのだが、aikoのすこしずつ音程があがるグリッサンドの途中にはもちろんそういった基本音程外の音が含まれているのだろう。初めて聞いたときにはショックを受け、何度か聞くうちに降参した。やはり、重力から逸脱していく。

恋愛などというものについてはほとんどわからない。と、書くことも気色の悪い話のような気もするが・・・恋愛には拘泥のイメージが強い。しかしaikoの歌のような浮遊感のある恋愛なら何かひとを幸せにするかもしれない。


セクシュアリティということにも私は無縁であり、中性的であることを好む。しかし、そのせいか、自分は死に近い気もする。あるいは、死からも、生からも遠いのかもしれない。過剰な生は、死に近づくことのようでもある。しかし、生が充溢するためには死に近づくことも厭わない必要があるのかもしれない。と、いうのは連想が突飛すぎるな。
ジェンダーというと、形式的な性役割のイメージがあり、女性性などというと、そのジェンダー差別の支持者であるかのように思われるかもしれない。ステレオタイプの女性イメージより実態に近く、反ジェンダーが結局は保守主義の対称形のような形式に陥るのにも似ず、aikoの女性性というのは好ましいと思う。

いずれにしても私とは別世界のはなしなのだが。

桜の木の下

桜の木の下

夏服

夏服