病んだ魂と音楽

「病んだ魂」というのはおおげさだ。カート・コバーンに関する本の邦題と同じだということにも気付いた。関係はありません。
さらに、ほぼ意味不明の言葉が続きます。あらかじめ断りましたからね。


昨日はなんとつまらないことを書いてしまったのだろう。日本語として間違っている部分も多い。マンドリン合奏関係の人以外にはわかりにくい内容だが、人の頭の中がこんなものだと知れたら、情けない気持ちになるようなものだとも思う。読んだ方には非常に申し訳ない。
ミクシィではマンドリン関係の熱心な方がおそらく検索語から来ていたようだが、失望されたことと思うと、無駄な時間を使わせ、なにか社会的に悪いことをしてしまった気がする。インターネットで放言などやめたほうがいいかもしれない。
はてなダイアリーウェブログの方にはマンドリンでの検索で来られた方はあまりおらず、ほっとしている。

しかしその情けない、くだらない昨日の日記に、私の病理が現れている気がしてきた。
独善的な感じだろうか。そこから何かを探ったほうがいいのではないかと思えてきた。

私はそれなりに趣味がいいと自分で思っている。別にたいしたことだと思っているわけではないが、ゆずれない感じはする。
問題は、それに関する意識や表現が何かおかしな位相にはまりこんでいること、音楽がフラストレーションにつながったりすることだ。どういうことなのだろう。

そもそも私はなぜ楽器を続けているのだろう。10年前には全く疑問に感じなかったのが、数年前から苦痛な部分があり、しかし逆に音楽をやりたいという衝動も強くなり、病的な状態だ。

人間関係が、やっぱり得意ではないためなのだろうか(変な言葉だ)。狭い世界で、誹謗中傷もあり、人間関係のトラブルもあり、くだらないことも多く、がっかりすることも多かったためだろうか。それが今では、自分にがっかりする。
私などが続けていいのだろうか。音楽をしなびさせるような人間ではないのか。

感受性が豊かなつもりだった。幅広い感受性、理解力を自負してもいた。
優れた技術、抜きんでた表現などに敬意を払いつつも、不器用な表現の中の真実、発展途上の技術にも注目できる。
しかし、お互いあら探しをするひとたちに出会った。それらは表現の追求のきびしさというものなのだろうか。なぜ理解し合えないか、という問題じゃないのか。理解しようとしないのか。私が両方に接していることを、彼らはいったいどう思っていたのだろう。
私は不器用で、さらに、ついに発展の可能性が乏しくなってしまった気がする。ただ不器用なだけで、真実などないのかも知れない。少しだけ趣味がいいからといって、なんのたしにもならないな。

などという変な話とは縁のないひとたちも多い。そういう人たちと長年一緒にやってきたのであって、今も関わりがある人たちはほとんどそうだ。上に書いた「理解し合えない」ような人たちも、ほぼ、健康に音楽をやっている。なぜ私に対して暗い側面を見せる人が多かったのだろう。私は病的になったのだろう。私が悪いのだろうか。

と、いうようなことは2、3年前に集中していて、今はあまりない。そのころは私が仕事上病的な人たちと関わっていた時期に重なっていた。今はそんなひとたちとの関わりはない。しかし、彼らも特に私に対して病的な部分を顕かにしていた。そんなこと、何か病的な連鎖が生じてしまったのか。

記憶がその前にさかのぼると、組織として病んでいた会社、ふたつに続けて勤めていたことを思い出した。勤めていたひとたちは、それでも病んでいない人も多かった。なぜ組織の病理を理解してそのまま変革もせず勤め続け、しかも病まずにいられるのだろう。
いや、逆だ。私はどうして病理をひろってしまいがちなのだろう。

あと、音楽だ。
人間性の回復につながる要素を感じる。
しかし、ひとを巻き込んでいいのかという懸念がある。

何よりも、とにかく自意識過剰だ・・・。


ここまで読んだ方はなかなかいないと思いますので、遅きに失していますが、読んだ方にはお詫びいたします。