病んだ魂4

はたして知人のみなさんも読むところに、心を病んだようなことを書いていいのだろうか。

心を病むひとがいるということには、そうではないひとからもっと理解があるべきだと思う。自分が病んでいるかもしれないと思う以前からそう考えていたし、そのなごりで、病んでいるかも知れないと思いながら何か書こうとしているのかもしれない。変なことを書いてしまったということを、削除などして隠蔽して済ませるべきことではないかもしれないという感じもある。この年齢でこんなことを考えている事自体が奇妙でしかない気もするが。
けれど、しかし私も何らかの社会の病理、知人の病理を「ひろってしまった」感じがするので、私の病理があるとすればひろわないでもらいたいとも思う。

どう表現すればいいのだろう。
日常的にはここで書いていることほどにはおかしくはないはずであり、しかし病的だという自覚を持つ以前にくらべるとおかしな言動があると、自分で思っている。以前との明らかな違いは、その自覚が動揺を招いていることだ。挙動が不自然。そのことを気にして、さらに不自然になる。
今は、それらをひっくるめて「考えないこと」にしていることである程度の自然さを保っているのだろうか、しかし、ある程度にでも保てているのか。
という状況がおおかたの時間を占めているが、時折、あきらかに奇妙な言動が生じることがある。「考えないこと」にしているのが崩れたときに、接している相手や、あるいはそこにいないひとへの配慮を欠く言動になっている。
他人の批判は以前の私にとってふつうのことであり、はばからなかったのだが、それはそれである種の配慮はしていたし、意図的に配慮を欠いていた場合もある。何が変わったのだろう。
何かが壊れたのか。

自分が病んだのは自分に原因があり、病んでしまうような自分は間違っているというような感じがある。
うつ病でも、そう知った知人から力強いはげましが集まるような魅力的な病気のひともいるらしい。自分にはそんな魅力はないので、価値のない人間だという感じもある。
これは、ある種典型的なうつの思考パターンのようだが、私は他人の批判や悪口と聞きまがうようなことを時折配慮なく口にしてしまう感じもする。さらに、以前から同じようなことを口にしていて、そのときはふつうに批判し、それは建設的にはたらいていた部分もあったはずの、同じようなことばのはずなのに何かイヤな響きを持ってくるような気がする。この点では、うつとは明らかに違うはずであり、このあたりで「新種の」うつであるかのように言われているようなものとの類縁性を感じる。このあたりでは、しばらく病名が混乱していた時期もあったはずだ。
同じような発言習慣が保持されたまま違った響きを持つのは、何らかの問題解決への意欲のようなものが失われている状態で発言しているからで、自分で言ったことの責任が持てなくなっているのに、同じような発言を続けているということのためなのだろうか、と、思ったが、ややこしくてわからない。

責任転嫁のそしりをある程度受けてもかまわないつもりで書くが、社会は病んでいる。
たとえば、アフガニスタンでひとの幸福のためにかけがえのない仕事をしていた人が、(おそらく)利己的な動機からあっさりと殺される。人類の歴史というものはそういうものだったというような言葉で片づけられない気がする。
北海道に住んでいて、若干一般的な人よりは多くの知り合いがいて様々な意見を聞くことが出来た、俯瞰的に社会を眺めることのできる立場からわかることは、アイヌ民族の血を受け継いでいるひとたちは隘路に迷い込みやすいということだ。おそらく、「アイヌ人は日本人より劣っている」などというはっきりとした言葉では現れない、極めてイヤな感じを子供たちに伝えてしまう親が、今もいるだろう。それを表だって言わないほうが効果的だということまでをも言外に伝えてしまうように。
と、いうようなことを言葉にすることが社会にとっていいかどうか、アイヌの血をひく人たちにとって逆に不快なことにならないかどうかの自信のないままここに書く、そのことにも自分の病理が現れているかもしれないなどと思いつつ・・・。
正社員に対する手厚い保障を日本的経営と言っていたそれを一部で維持しつつ、それが逆にそこからはずれた人への差別意識へとさえつながり、労働者が分断されている事実。
「学力テスト」で、「応用力」のないことが問題視され、そのニュースで「考える力をつけさせる」授業として紹介されていた授業は、自分がふつうに受けていた授業と変わらないように感じられ、それどころか10数年前に教員をやっていた時代に周囲の教員の人たちもふつうにやっていた種のもののように感じられたのだが、それを何かあたらしくやろうとしているように紹介されていたけれど、そこから伺われたのは、単に以前にはあった教育力が学校から、社会から失われたという事実であり、ベクトルとして教育力は低下しているのだということだと思えた。私は学習塾が悪いと思うのだが。そこから育った教師がつめこみしか出来ないのだろうと。
やはり責任転嫁で、こんなことを考えているから病むのだろう。