病んだ魂5

とはいえ、多くのひとが病んでいるという気がする。
基本的には社会が制度疲労していることのあおりだと思うが、はたして「社会が」だろうか。言語が? 科学万能主義的な発想が? あるいは似非科学的な非合理的発想が?
基本的には知性は必ずしも進歩していないと考えるべきだ。あるいは進歩、あるいは進化という考え方が誤りだ。あるいは、進むことにいいことだというイメージを持っていることが誤りだ。正と負というスケールのイメージが誤りだ。
何かしら一般的なものごとのとらえ方を批判する。そこに誤謬、あるいは盲点を発見する。そこから思いついた発想を一般化するときにもとの誤謬など問題にならないくらいの過ちに陥る。時に、一時的に成功することが問題を大きくする。例、マクドナルドの値下げ、マクドナルドそのもの、さかのぼると食料産業。


思考力が記憶力とは別個のように存在すると考えていた。今もそのイメージから抜けられない。
学力テストで応用力のないことが問題視されているらしいが、学力テスト上で応用力といわれているものなど、記憶することと比べても、特段複雑な、判断力を必要とされるものではない。そんなレベルでは判断力が発揮されない子供たちも、人間関係などの局面では様々な状況を読んで直感的に判断でき、そちらのほうがはるかに知性が要求されるものなのだが。


美術の成績が悪いのに服装のセンスがいい人がいる。これは美術のカリキュラムが応用力を育てていない証左だ。
しかし、教科としての美術にそういう応用力を求めるべきかどうかは別の話題かも知れない。
難しいのは「表現力を育てる」というような問題。たとえば、思考力と表現力は別個に扱うべき問題なのだろうか。


精神的に、病的だという自覚を持っている。
以前は自覚があればほんとうに病んでいない証だと考えていた。今は実際に自覚があっても病むことは間違いなくありえると、実体験から感じている。
半年以上、病状が改善し続けているという自覚を、何度も繰り返し感じている。それが錯覚だったかも知れないと失望したり、今度は大丈夫かも知れないと思ったりしている。実感として、長期的にはゆるやかに回復しているが、短い時間単位でみると、ノコギリの歯のように上がったり下がったりしている印象がある。


精神的な病というものを、あるひとりの問題と考えることは出来ない。そのひとりのおかれている社会的状況は無視できない。
人間が一人で存在していると考えることは、ヒューマニズムの提唱者が唱えるお定まりのことばなどとはちょっと違った意味合いで、間違っている。
関連する事例、認知症は、役割を奪われることで悪化する。ただ、鬱症などは役割を過剰に負わせることでも悪化する。


なにごとも、一般化しすぎることは良くない。過剰な一般化をもくろんでいる言説は疑うべきだ。(という、これもある意味一般化なのだが・・・)が、疑うことは、個人なり集団なりのアイデンティティを傷つける可能性がある。また、敢えて一般化できるくらいだということで一般化した言い方をするという戦略はありえる。その戦略と、実際に一般化すべきかどうかということが、極めて混乱している。


フーコーを思い出す。病んだ状況を解決するためには、ひとへ働きかけるほかない、というイメージがうかぶ。
それが、エロスだ。
私の心の病はタナトスで、その病気が回復するプロセスがエロス的状況を示していたかもしれない。
病識が顕在化していき、言動の混乱が生じていたのは、実は回復のプロセスだったのかも知れない。
風邪をひいて熱が出るのは、免疫が働いているためだ。
しかし、今は鬱病という事が多いが、躁鬱病ということがあり、実は鬱傾向しか現れない病より、躁が現れるほうが深刻なのだ。グッドウィルの社長などは、病的な人間だったと思う。しかしあれはエロスではないだろう。
グッドウィル傘下にコムスンがあり、現場では誠実に働いているひとがいて、上部組織では観念的な操作をしていた。誠実に働いているひとにはエロスがあり、観念的な操作はタナトスだ。
と、考えると、エロスとタナトスがはっきりしすぎるのが良くないのかと思ったが、何を書いてるんだか。