病んだ魂6

社会の暗部、不幸、そのようなことが気になる。

私の父親は失業していたことがあり、それは、失業が今より珍しかった頃のはなしだ。私はその性質を受け継いでいるどころか、もっと極端になっている。私は勤労意欲が低い。父より能力が高いのだが、マイナス要素もまた大きい。プライドが高すぎる、つまらない仕事を嫌う、性格が難しいといった点では父以上であり、なんとか仕事があるという程度で生きているということでは父親の跡を継いだことになる。
と、今まで自覚したことはなかった。そういうことが現実として突きつけられるのが、遅かったのか。今までは普通の人が感じるようには失業的な状況も苦ではなかったのだが。どこまで鈍かったのだろう。それは、今では、私が父以上に奇妙な人間であったということの証拠でしかない。仕事が少なくなったとき、「これが貧乏だ」、と、気分が良くなった覚えがある。それは3年ほど前のことで、今でも一面の真理ではあったと思うのだけれど。

社会には奇妙なことが多く、誠実なひとがより苦しむようなところがある。
誠実であっても、そんなこととは戸板一枚隔てているだけで無縁で済み、幸福な生を全うするひともいる。そんなひとは、好きだ。でも、苦しんでいて、めげず、努力して乗り越えるひとは、もっと魅力的かも知れない。
巡りあった状況が悪すぎ、押しつぶされるひともいる。そんな人たち同士が隣り合って、すれ違い、言葉を交わすこともなく、理解し合うこともなく、ただ共存している。
誠実ではなく、あるいは一面のみの誠実さを言い訳にして、ひとから、社会から何かをかすめ取るように生きているひともいる。勝ち組というようなことばにあてはまるひとに、そういうひともいれば、しかし誠実なひともいる。
負け組というようなことばにあてはまるひとにも、そういう巧い生き方をしようとしてしくじったひともいれば、ひとのために良かれと思って生きていて割を食う人もいる。
勝たなきゃな。そう思うのだが・・・。
そういう人たちいろいろ、共存しているようであり、共存といえるだけの関係性があると思えないようでもありながら、近い空間、時間を共有して生きている。

問題意識を持っていて、それだけで何もしていないひとは、何も考えていないひとよりたちが悪いという話をどこかで聞いた気がする。非常に不快な感じがした。真実のようであり、それはひとをつまずかせようとする意図の下に話されたようでもある。いずれにしても私のことか。



病んでいることと、ある種の自己表現の不可能性、ただそう感じているだけかも知れないし、実際そういう状況なのかも知れない、そういうことが関係している。
病んでいるような思考も表現したい。
実は、私は、病んでいない表現もできる。しかし、その表面的に健康な表現と、表面にあらわれない思考が、一致したり、乖離したりということが、交互に起こっている。ふつうにふつうのことを話しているときもあれば、ふつうのことを話していることに、何か現実感が希薄なことがある。
ふつうにふつうのことを、たとえばこういうウェブログなどに書くことができることもあるかもしれない。
が、今は主に病んでいることを書く方が自然であり、それらが分裂している状況が統合されるとすれば、治癒した状態になるのだろう。
いままでは病んでいることを書くこともうまくできなかった感じがする。