小三治師匠

柳家小三治さんという人のことは心のどこかに引っかかっていた。

落語に興味がないというわけではないが、特別のめり込んだわけではない。若い頃は落ちているのかどうか分からなかった。今は少しは分かるようになったのではないか。誰かが志ん生のことを書いていて、そんなにすごいものかと本を買ったことはあったが。途中までは読んだだろうか。すべて忘れてしまった。「ちりとてちん」という朝のテレビ小説で題材としてとりあげられていたが、あれは上方落語というものだろうか。それを見た感じでは、一生をかける価値のあるものだ。

小三治さんは、以前はテレビでよく見かけたこともあったと思う。それが、時々存在感を感じるといった程度になりながら、ずっと記憶にのこっていたという感じだ。私の町にも来たのを、新聞の広告なり、スーパーのインフォメーションカウンタのスタンドなんかにあったりするようなビラで見かけたりしたことがあって、ああ、来るんだなと思うときの印象が、ほかの落語家の人よりも、何か強い感じだった。
落語家でいえば、小朝さんなどだと鳴り物入りの感じになるのが、小三治さんだと少し違う。談志さんだとまた何かすごいという感じだろうが、そういうのとも違う。
雑誌などで見かけると、取り上げられ方も、たたずまいも何か気になった。

ぼんやりテレビを見ていてそろそろ消そうかと思っていたら「プロフェッショナル」という番組がはじまり、小三治師匠の顔が映り意外な感じがして、ただごとならぬ気配を感じていたら100回だという文字が出る。そんな気の利いた番組だったかしら。スガシカオのテーマソングはちょっと困ると思う。
自分が嫌だとかダメだというようなことを言っていて、それは生真面目だからと言っていたのだったか。書いてみると感じが出ないが、しかしそう言うしかない、いくらでもそう言えると言っていたような気がして、しかし記憶違いか、自分も同じようなことを感じていると書くなどということはおこがましいにもほどがあるが、そういう自信というものもあるのかもしれず、やはりあつかましいものの、何か少し胸のつかえが下りる感じもした。
自分が嫌だというのは、そう言葉に出来るまでがもっと嫌なのであって、言葉に出来て足下がやっと落ち着く感じのことかもしれない。などと考えることも私などにはおこがましいことではあろうけれど。

演目は直前に決めるどころか、高座に上がっても決まっていないこともあるということだったのか、高座で噺も枕もやりたくないなどと言って笑いがわき上がるのだが、冗談でもなかったというナレーションがつけられていた。
候補に上がっている演目を問われて口には出来ないというあたりも、真に迫るものがあった。
今ふと、一期一会という言葉が思い浮かんだものの、この言葉の語感はちょっと甘すぎる感じもする。

番組ホストの茂木さんというひとはどうも信用がならないと思って見ていたが、対面するコーナーに小三治さんも出ていて、真に迫っていた。小三治さんは茂木先生に150くらい噺を覚えたけれど30くらいしか演らない。120くらいの噺はどうすりゃいいのかと尋ねていた。実際に繰り返すしかないとか、忘れても間合いなどに生きているのではないかなどと言ったが、それに対して先生はやっぱり脳を弁護するんですねと言う。目が覚めるような感じを覚えた。これに虚をつかれた茂木先生はあわてたように脳はすばらしいと言っていたのだが。
来週の「プロフェッショナル」は脳の活用法? のようなことらしく、その予告の映像で茂木氏はポジティブな力でしか脳は働かないというようなことを言っていて、小三治さんの自分が嫌だというものもポジティブなものということなのかと思う。

一番下からものを見ることで落語が出来ると言っていただろうか。
私も下から見ようと思ったのだろうか、今、下から見ているのだろうかと考えた。