アマチュア音楽家の演奏会

マチュアで、音楽をやるということ。
それが、プロフェッショナルとちがうということは、そんなにないのかな、とも思う。
技術? もちろん重要だけれど、私は何にしてもそれを重視しない傾向があるかな。もちろん重要だけれど、というか、必須? その先は・・・。
で、演奏会をやる。アマチュアはほぼ持ち出しでもやる。いや、お金の話はいいかな。専門家かどうか、のニュアンスが強いか。
数百年前には自立した「音楽会」というものはなかったかな、とも思う。
音楽はたとえば貴族の所有物(?)であったり、宗教に伴ったものだったり、あるいは労働や子守や商売の友だった。
コンサートは「市民」の誕生とともに生まれた、近代に特有なもの。専門家というものも、以前からあって、ギルドなどというものがその原型になっていたのかもしれないけれど、その専門家の音楽は階級や宗教や生活などから離れて、自立性の強いものになっていった。芸術も近代にあらわれたものか、やっぱり。音楽もどんどん芸術らしくなっていったんじゃないか。


日曜日に聞いた音楽会はアマチュアでも芸術に近い、高みを目指すものだったのかも知れないな、と思った。マンドリン合奏、撥弦楽器オーケストラの演奏会。プロフェッショナルなマンドリンオケはたぶんどこにもないはずだ。
とはいえ、エンターティンメントの要素がより強い団体もある。この団体は、意識していないかも知れない、よりよい音楽をやりたいというだけだと思うけれど、それが純粋な芸術に近づこうとすることだというような気がする。エンターティンメントは芸術と矛盾するとか思わないけれど、それを特に重要な要素だと考えているのでなければ、自然にそこに近づくのではないか。あるいは、はっきりと芸術を意識しないほうがより芸術的かもしれないなんて、禅問答のようなことをしたいわけでもないし、結局、私は芸術ということが常に頭から離れないためにこんなことを考えてしまうのだろうけれど。


知り合いが多い団体、私の知っている地元北海道の団体の中でも純化の度合いが強いほうの団体なのだろうな、と、思う。
しかし、参加している人たちの意識はみんな違うし、それが共通認識として近づくことも難しい。団体の中心になっているメンバーの求心力が重要だろうけれど、そんな意識が浸透するチャンスも案外つくりにくいかもしれない。
マンドリンなんて、どうして始めるんだろう。どうして続けるんだろう。そっちのほうが問題で、続けている人は誰かと一緒にやりたいひとが多くて、集まる場を求める。そして、「どうして」は、人それぞれだ。そんな矛盾する要素が結晶したのがそれぞれの団体なんだろうな。ある意味「なんとなく」。


指揮者は重要だ。必ずしも団体の運営の中心になるとは限らない。演奏会を、そこでする演奏を作るマネージャー? 重ねるリハーサルの進行は彼の手にゆだねられている。そこで発する言葉は時にすべてを大きく左右する。



で、続きます。風呂敷が拡がってしまってどう納めたらいいのか・・・。