アマチュア音楽家の演奏会2

マンドリン、という楽器を選ぶのは、何故だろう。


マンドリンの音色が好きだという理由の人は幸せだと思う。
私はとにかく音楽がやりたくて、いろいろ大学のサークルを見て選んだ。
マンドリンの音色は好きかなあ。ドラとかセロとか、低い音の楽器のほうが好きかも知れない。しかしそもそも弦楽器は好きだ。アコースティック楽器の方が好きだ。ふつうの楽器で一番好きなのはチェロ、バイオリン族のチェロか。管楽器も、オーボエとか、クラリネットとか、フルートとか木管系の楽器は好きかも知れない。ピアノとかギターとか、一台ですべてできる(?)楽器のソロは、合奏の楽しさを知ると、ちょっと寂しい楽器のような気がする。



どんな曲をやるのか、ということがある。私たちがマンドリンでやる曲は、基本は、クラシックの延長だ(ほかにフラットマンドリンというカントリー系のバンドで使う楽器の場合はちょっと違う)。
と、いっても、クラシックのプロのオーケストラでやるような曲ほどにすごいいい曲はあまりできない。マンドリンのためには、作曲家のひともそんなに取り組む人がいないことがある。演奏する人も、聴く人も限られたひとしかいないかも知れない。
ほかの楽器で演奏するために書かれた曲をやると、オリジナルの楽器でやったほうがいいじゃないか、という人が出てくる。私はあまりそう思わないが。しかし、原曲と音色も音域も演奏の自由度もちがう楽器で演奏するための編曲というのは結構難しいのかもしれないし、作曲と同様なかなか取り組む人も少なく、なかなか、やりたい曲のいい編曲というものもないのかも知れないなあと思う。編曲したような曲をやる必然性・・・。
演奏会でやるためのレパートリーを、どう考えて選ぶか。
私自身はマンドリンのために書かれた曲に何かあきたらないものを感じるので、編曲ものを採り入れたい気持ちがある。
クラシックの曲は、ポピュラーの曲よりはやりやすいだろうか。


私の聞きに行った演奏会は、マンドリン合奏のための曲のみで構成されていた。
この楽器の合奏形態が流行ったのは100年ほど前の、戦前のイタリアが最も盛んで、しかし戦後かなりすたれたようだ。次いでドイツ、日本などで・・・この2国ではイタリアでほどの隆盛がなかった代わりに衰退もそれほどではないかもしれない。
それはいいとして、演奏会は100年近く前のイタリアの曲5曲、それより少し後の日本の曲1曲、最近の日本の曲2曲(と言っても1曲は30年以上前のものだが)、イタリアの曲1曲で構成されていた。
この団体は、何かしら「標準」というものを構築しようとしているような気がする。
昨年、プログラムに新しい作品が取り上げられたときは、イタリアの隆盛期、その頃より少し後の日本の曲を取り上げることが多かったこの団体に変化が生じたととらえられたようでもある。アクチュアリティを保って生き延びようということになるだろうか。メンバーに若い人が入り、そのひとたちには今までのプログラムが飽き足らないということがあったのだろうか。
抵抗感を感じた人も多かったようだけれど、そうはいっても、新しい作品の中でも質的に高いものを選ぼうという点では変わらない感じがする。技術的に難しいものも、解釈に困難が伴いそうなものもあった。



高い壁を乗り越えようとする意欲が感じられ、それには楽器を弾く立場では共感するものの、観客としてはよそよそしい感じもある。
何故高みを目指すんだろう、楽しければいいのに。でも、そんなに簡単ではないのかもしれない。高みを目指さないで、どうして楽しいのか、と、いうこともあるのかもしれないと思う。
たとえば、今まで知らなかったようなタイプの曲を演奏する楽しみ。そんな曲を演奏するためには今まで出来なかったような発想の切り替えや、今まで使わなかった技術が必要になってくるかもしれない。今まで知っていた曲を突き詰めると違った音楽が現れてくるということもある。と、思う。私はそこまで行っていないが。
でもなあ・・・すごく面白かったんだけれど、なにかひっかかるなあ・・・。


他人事には感じられず、私たちはどこに行くのか、と、思った。