病んだ魂12

いやだなあ。
自分のやっていることはそれなりにまともで、いいこともしているのだけれど、なぜか、そんなことをしてもしても自分のためになっているともあまり思えず、人のためになってはいるのだけれども、だからどうしたという感じだ。

ふつうのことをふつうにして、余計なことを考えず、あたりまえであればいいのだろうが。

あまりふつうのひとのできないことが、少しだけずついろいろでき、しかし、少しずつだけしかできない。なにかやらなくてはならないと、それなりに必死でやっている感じもするのだけれど、少しのことしかできず、これではダメだと思う。
みんながお前はダメだと思っているに違いないという感じがして、自分でそう思っているせいか実際にそう思った人もいたようだ。そして、やっぱり自分はダメだと思う。
そんなことはないとわざわざ言ってくれる人もいて、そんなふうにわざわざ言ってもらわないとダメな自分というものはやっぱりダメだと思う。
そんなひとと関わっていられるのは幸せに違いないが、しかし、そうでなかったら、どうなっていたのだろう。

社会では、ふつうに働いて、ふつうに報酬を得る権利というものがあるのだろうけれど、あるのだけれど実際には簡単にそういう権利が侵されるということもあり、そういうときに、そういうことに対して無力だった。逆らってみたのだけれどそれはかなりおかしなことのようであり、愚かなことであるという感じがした。
ほんとうなら働いてその報酬を得るという素晴らしいこと、その手応えが世界には存在する、そんなことが社会には確固として存在しているということも、知らないわけではない。が、なぜそういうことにならなくなってしまうのか。自分にも原因があるのだ。
自分に原因があるので、自分以外の原因、社会のおかしな部分が、どうしてなのかがわからない。
制度?
慣例的に、そこかしこで、こんなものだと、あたりまえの報酬を支払わない話。制度は無意味になっている。制度はなんのためにあるのか。
何かそんな異次元に迷い込んだようで、そしてそう思ってしまったことからか、何か逃れられないかのように不幸に取り憑かれている感じがする。
本当はかなり幸福だと思ってもいいはずなのに。


と、いうような事々はある種典型的な病んだ認識かもしれない。
そうであるから、このような認識をやめようとも思う。半分はやめていながら、こんな考え方から抜け出すことにある程度成功しつつ、しかし抜け出し方が本当にいいのか、という感じがしてきて、わざわざこのような病んだ認識をふたたびよみがえらせ、再確認してみる。
状況がまた悪くなったときには、こんな考えに、すぐまた戻ってしまうだろう。
抜け出せたのはどうしてか。
何が生きるために必要なのか。
そもそもこんなところに落ち込んだのはどうしてだったのだろう。