病んだ魂16

世の中、くだらない人が多い。と、数人に出会っただけで思う。
そのくだらない人のくだらないネットワークをたどっていくことを想像したからか。
私もあまりまともな人間ではなく、しかし私を相手に出来るような奇特な人には至極まともかつ魅力的な人が多いと思っていた。
仕事関係はそうでもなかったが、そういうものだ。そして、仕事関係でも特に私と親しかった人が魅力的であること。
しかし利益を元にしたつきあいとは・・・資本主義社会でそんなことを嫌ってはいられず、利益を互いに共有するネットワークは資本主義的にも、モラル的にも現実的に問題なく存在しうるものの、しかし賢くはない私はくだらないネットワークにいつの間にか巻き込まれていた。
何かしらの仕事をし、それにふさわしい対価を得る。基本的にはそのルールに沿っているようでいて、その際に何か、より多くかすめ取ろうとすること、その連鎖。
そういうことに賢く対応できず、搾取されたように感じてそのことへの怨嗟をつのらせた私も同様にくだらない。
私の魅力的な知人たちとは、一線を画す、くだらない自分を発見する。

はっきりと病み始めたようなサインがあったような感じで思い出されるのは一昨々年の秋から暮れ。眠れない夜々、どうしても受け入れられない現実、それを切り離すまでの憔悴、その間の循環して終わらない思考、その後の何かが崩壊した感覚。
同じような眠れない夜々が訪れるようなことは、その半年前にもあった。しかしそれはものわかれし、それで良かったというようなことだった。
それ以前にもあったが、対決の上和解したところもある。彼の方が折れていたのかも知れない。長らく仕事をし、他で忙しくなってこちらから連絡をしなくなった。
それらの、自営であることの恐ろしい束縛。
しかし当初は会社勤めからの解放をも感じていたものの。
会社勤め時代のひどい待遇、しかしそれでも同様に入社した人よりかなり良かったこと、そのことが何か嫌な感じで身体にまとわりついている感じ。それ以前に、自分が奇妙な人間である感じ。誰しもがそうではあるものの、自分の奇妙さに焦燥感が伴っているのはなんだ。生きているだけで不安、とはいえ、それなりに耐えられたものが、上記の日々の中で耐えられないものになったこと。

それ以前に教員をしばらく経験し、辞めたこと。
そのことひとつとって、それだけで奇妙な人間ということになる。そのことについて聞くものを納得させることの出来る積極的な理由、しかも教員になった時点までさかのぼって説明できるようなものは、用意できなかった。なぜなら私はなんとなくその職を選び、その役割に耐えられなくなって逃げただけだから。その「逃げた」こと、教育を取り巻く状況は私にとって好ましくはなかった。しかし、それは関わるものとして対決すべき事で、そんなふうに自身を賭けて取り組むべき大切な仕事、誰かがやらねばならぬ、極めて重要な仕事、それだけにやりがいがある、しかし私はそのやりがいを感じることが出来なかった。それはどうしてだったのだろう。

何か頭の中に霞がかかって、仕事や、お金を稼ぐということに関わることに真剣になれないし、頭の中がぼうっとする感覚・・・。


あとは、対人関係における奇妙な私の感じ、受け身であること、それは、なぜか、人に働きかける力に欠ける。
社会的な、親和力? 親和力というのはゲーテのその著作の中で望ましくないものとして描かれたのだったか・・・。
人に対して、気後れすること、それはかなり異常だろうか。そのくせ、厚かましい?
私は、なにか気味の悪い、嫌な感じの人だろう。