言葉について1

詩吟をやっていた祖母から「漢詩漢文小百科」というA5サイズ、200ページくらいのムック本(?)を借りてきている。ちょっと前に祖母の家で見つけたのだが、たまたま開いたところを読んで漢字の読み方に「漢音」と「呉音」があるということを知り、それを今まで知らなかった事にちょっとショックを受けた。
現在を生きる上でさほど必要のない知識と言えなくもないが、言葉というものは頭の中で自己を形成している部品、材料だとも言える。そこに中国産の材料が思ったより多い割合で使われているのはだんだんと感じていたところだったのに、その産地や産年もよく知らなかった・・・。
どのような言語を使うかはグローバル意識からすると重要な問題ではなく、単に道具の違いのように感じられるものの、日本という国に住み、日本語といわれる言葉を用いて考え、コミュニケーションを行っている。しかしその言葉については対象化して考える機会があまり無い。この例は、その日本語の特性に関する、今となってはほんの小さな事件にすぎないかも知れないのではあるが。

日本語は伝統的に漢民族の言葉から文字と単語をかなり採り入れ、もともとの・・・という書き方が適当かどうか分からないが・・・にほんの言葉・・・そのにほんという読みは漢語(と、なんとなく書きたくなった)の読み方からの派生に思われるが・・・に、組み込んで・・・という書き方がしっかり適当とは思えないが・・・使っている。その読む音が同じ漢民族の国であっても地域(と時期?)の違う二種類に主に分かれる、そしてそれがずっと両方とも残ってしまっているということは・・・日本語の使用マニュアル(つまりは学校教育の教科書)で、より基礎的な内容として取り上げられていてもいいような、そうでないような・・・。

ともあれその「小百科」によると、「漢音」というのは遣隋使と遣唐使(607〜894)の時代の、当時都であった長安近辺の言語の音を輸入し日本に伝えられたものらしい。「呉音」のほうは、さらに遡って4世紀の後半から6世紀までの間に、当時文化の中心であった「呉」・・・中国の南北朝時代南朝・・・の地域から百済を経て輸入されていた発音のことらしい。
奈良時代以前の「中国語」の読みを今も使っている・・・漢音すらもご当地中国では「中古音」といわれて研究の対象となっているもののようであり、日本語から逆に推定されるようなものだという・・・というのはWikipediaから調べた。
ふたたび「小百科」に戻ると、「唐音」というものもあり、それは平安末期、鎌倉時代初期以降に輸入されたことばの音になるらしく、それがさらに、室町までの「宋音」、江戸の「華音」となり、そのあたりはようやく現代の発音に近くなるということだ。(余談だが、「華音」以外は、ちゃんと変換候補に出てきたのに驚いた)
主な違いに漢音では清音のものが、呉音では濁音になる(「自」「大」「存」など)、ザ行、ダ行とナ行の違い(「二」「人」、「男」「内」など)、「イョ」と「オ」(「去」「御」など)・・・などなどというものがあるようだ。
漢音が入って以来しばらくは呉音は古くさいものと馬鹿にされたらしいが、今の中国ではどちらも通じないのだ。

と、いうところまでにいわゆる「音読み」「訓読み」という話を入れなかったのだけれど・・・そういう話もあるな。


欧米諸語の主なものは、おおまかにはゲルマン系とラテン系統に分かれるのだろうと思っている。思っていた。
今ふと前者は海賊的な民族の言葉で、後者は古代ローマ文明から拡がった言葉かと思ったが、果たしてゲルマン・・・ジャーマン・・・ドイツ? とはいったい何か、さっぱりわからないことにも気付く。「ゲルマン民族の大移動」って何?
それはともかく陸続きのこともあり、「大移動」という字面だけでは済まないだろう血なまぐさいこともあるだろうし、あちらにおける言語というもののルーツの複雑さにはしばらく鎖国していた島国の人間には思いもつかないものがあるのだろうとは思ったのだが、そのにほんにもそれとはまた違った事情もあるわけだ。
現在のにほんの国の、漢字が主に中国からのことば、カタカナが主に西洋からのことば、ひらかなというものは助詞などを中心に日本語の根幹になる部分、と、書いた書き方が適当とは思えない、さらに明らかに間違っているものの、書きたいニュアンスはくみ取ってもらえまいか、というようなかたちで面白いコンプレックスの作られ方をしているというだけではなく、なにやら言葉というものが行き当たりばったりでなんとかなっているものだというように思えないこともなくなってくる。
同じ漢字にいくつもの読みがあることについては「そういうものだ」としか思っていなかったものが、ほんとうにあからさまなほどに簡単な理由があったのだとこの年齢になって知る拍子抜け感もある・・・。
本来は、自分の教養の無さを責めるべきなのだろうが。




それらのことと直接は関係がないが、白川静さん著の、中公新書「漢字百話」を、BookOffで買ってきた。
先日書店で松岡正剛さんという人の書いた平凡社新書白川静 漢字の世界観」などという本を見かけ、その松岡正剛さんという人のサイトで・・・今もう一度見直しているのだけれど、ナムジュン・パイクが「日本の人は白川静を読まなくてはダメよ」などと言っていたことが書いてある・・・なんていうことに出会っていた印象があり、この松岡正剛さんという人が美術家のなかでクレーを取り上げていることが面白かったことまでもが思い出されるものの、あまり関係がないといえばない。
しかしその白川静さんの「漢字百話」、いきなりソシュールが文字言語に対する音声言語の優位を主張(?)しているというような話から始まる。そこだけ読んでなぜか上記のことを思い出したのだけれど、やはり今のところそれほど関係はない。
しかしどうやら久しぶりに読んでみたい本というものを見つけることができたたようだ。

この古本、そのソシュールのことが書いてある2ページから6ページまでだけにところどころうすく赤鉛筆で線が引いてあってちょっとがっかりしたが、いったいどういうつもりで手に取られ、果たしてどれほど読まれたものか、そして私はこのもとの買い手以上にどこまで読み進めることができるのだろうか。ということは本当にどうでもいいことだが。