言葉について2

白川静さんの「漢字百話」を注釈などを除いて読み終えた。
たとえば「真」という文字が荘子以前はほとんど見えなかったことやその理由など、目が覚めるような内容が含まれていて、つまりは穏健でもっともらしいこと(と現在の社会で受け止められている(と、思われている)ようなこと)ばかりではたとえば現代という時空間のせまい世界の井の中の蛙なのだということがわかる。とはいえ、三次元世界に生きている私たちはもちろん平べったい蛙として生きていくしかないのかも知れない、というのはいかにも話が飛躍しすぎだ。
この小冊子には日中の国語政策に対する苦言も含まれていて、やむを得ないと考えていながらも納得のいかない部分に異議を唱えずにはいられない趣のようでもある。なにしろ、失われてしまっては二度戻らないたぐいのことでもあり、文化の受容に関しては少なくとも日本の明治期や中国の文化革命などで、現在では考えられない深いレベルで断層が生じているのは確かだ。
ただし・・・中国で「お母さん」を表記するときの煩雑さなどを考えたときの簡体字の切実さいうことも書いておられる。双方の国で文盲率がどんどん下がったことは確かだろうし、現在のこの地平で言葉を紡いでいくしかないのだ。
とはいえ、両国が西欧文化に出会い、近代化、民主主義化(少なくとも言葉はより多くの人に解放された)の過程で見失ったもの、あるいは・・・明治期のみならず、中国のかなり古い時代や日本の江戸時代などにも多く恣意的に解釈されていたものでもあった・・・を、知ることから見えてくるもの、私たちが日常思考に用いている文字、現在ほぼ唯一の表意文字体系であると思われる漢字というものの正体を知ることは、極めて有意義と思えた。


しかし。


・・・白川静氏が挙げていたソシュールではないが・・・それであってもはなしことばの優位ということを考えねばならない。
ひとつは記憶の問題で、コンピューター時代に特に考えなければならないことでもあろうが、書き言葉を用いてしまうことで記憶が衰えるということがあると思うのだ。私が自分自身で感じていることでもあり、このような仕事に従事している多くの人の精神的な行き詰まりに関係している気もする。書き言葉の生み出した豊かなものを捨て去るつもりはないが、話し言葉を用いる機会が減っていったことが、私から何かを奪ってしまった、今もあまり取り戻せていない気がする。
もうひとつは逆説的ではあるのだが、日本の明治以前の都市部以外での言葉というもの、現代でも世界の多くの地域の話し言葉しか知らない人たちの言葉というもののことを忘れるべきではないという漠然とした思いがあるからだ。NHKで話されている言葉などを、会話が得意ではない両親に育てられた私はかなりはやくから身につけていったと思うが、そのことで「言葉が自分のものではない」感じをずっとどこかで感じてきた気がする。表現は少し正確ではない。私は多くの人の言葉に、雑な、整理されていない乱暴な印象を感じてきた。という私も「だべさ」などというような言葉を使わないわけではないのだけれど・・・しかし、今も口語と文語、ということに似た断層は、そんな単純なレベルではなく、様々な形で存在してしまっているのか・・・。
とはいえ、漢字というものも、私たちが思っていたものとは違ったのだ。そのことに光が当てられたことの意味の大きさ、そしてそれは実はあたらしいことなのであり、古代のことに関してここ百年の間にあてられた光を用いて初めて知り得たことのようであり、その、あるいは漢代以来二千年以上の時の長さを考えると、目がくらむようだ。


などと考えたのは・・・。


「なまくら」ということばを思い出したからで、自分の今作っている作品にふさわしいと思ったのだけれど、同時に「ものぐさ太郎」というものも思いだし、花田清輝というひとまでも思い出した。今も花田清輝は時々読むのだけれど、「日本のルネッサンス人」というあたりの文化に当てられた光を、忘れるわけには行かない。
あとは、深沢七郎、その使っている言葉は漢字がふさわしいというものでもない、ということを思い出し、ついで白川静さんに話が戻ったような形で連想が進んだ、と、いちおう日記には書いておこう。
(沖縄のことばの、「やまとぐち」のときの妙な丁寧な感じをも思い出したが・・・。)