病んだ魂20 愛について

佐野元春というミュージシャン、シンガー・ソングライターの人がいて、彼に「サムデイ」という歌がある。ずいぶんまえのものなのだが、その歌詞のなかに、「いつかは誰でも愛の謎が解けてひとりきりじゃいられなくなる」という言葉がある。おきまりの、誰でも書きそうなフレーズという感じもするし、力を込めて歌われもする。この次に「こんな気持ちに揺れてしまうのは君のせいかもしれないんだぜ」と続くのではあるが。
と、いうときの愛というのは主に異性を対象とした恋愛のことなのであろうが、近頃私は、恋愛に限らず愛というものが「ひとりきりではいられない」ということに関係があるのではないかというように考えてしまうことがよくある。
大ヒットドラマであったと思われる「われら青春」で中村雅俊が歌った「ふれあい」などという歌があって、私が中学生の頃にはたしかクラス合唱で歌うところがあったりもして、自分のクラスがそうでなかったことにほっとしたりもしたのではあるが、松山千春の「大空と大地の中で」を歌う羽目になっていたりはした。どちらも実は嫌いではなかった。歌詞はともかく、中村雅俊のうたいかたや松山千春のメロディーの伸びやかさには惹かれていた。しかし、そんなことを公言するどころか、同時にそんなものは気恥ずかしいだけだという事を感じてもいた。
ということはさておき、その「ふれあい」には「人はみなひとりでは生きていけないものだから」などという歌詞があって、これにはさすがに抵抗があり、むしろひとりで生きていきたいものだというようなことを言葉にしないなりに感じていた部分があったような気がする。それは、つい最近まで私の生き方に通奏低音のように鳴り響き続けていた様な気もする。そして、それが最近もう響かなくなったような気もしている。ある種の敗北のように、その長かった音楽がカデンツをむかえ・・・なんという恥ずかしい書き方をしているのか。
そしてまた歌が思い出され、それはビートルズの「ヘルプ」であり、「誰か助けてくれ、誰でもいいわけじゃないけど」ということになり、そんなことが愛の謎なのだというような気がする。やはりこれも敗北宣言であり、「アイム・ア・ルーザー」ということになる。「ひとりでは生きていけない」というものの、その度合いというようなことでもあり、しかし自分で思っていた以上にひとを求めてしまう。
佐野元春の「サムデイ」に戻ってしまうが、そんなことを「若すぎて何だか分からなかったことがリアルに感じてしまうこの頃さ」と感じてしまうのであるが、それを42にもなってようやく感じているということで自分というものはいったいなにかという情けない感じも加わる。

大河ドラマ直江兼続という、「愛」の文字をあしらった(?)兜で知られる人が取り上げられているが、その当時の、また彼のいっていた「愛」というものは現代の一般的なものとは違うらしい。ちょっと気になるものの、ドラマでは現代的な愛のようなものになるのだろうなあ。
さらには、「愛」という漢字に関しても白川静さんの本に成立の由来があったと思うのだけれど、忘れた。

いずれにしても、私が今感じる愛ということは、「愛する」とか、「愛される」という動的なことではなく、何か空気や血液のようなもので、それがないと社会や世界が生命を危うくされる、もちろんその一部であるひとりのひとも・・・というようなことであろうと、感じずにはいられない。その生命が危うくなってそう感じているものなのだが。

最近良く話をする大学の後輩がことあるごとに、「やっぱり愛だよ」とか言う。以前の私なら思考停止のようで腹立たしいことこの上ないと思っていたものなのだけれど、今となっては、もうひとつ納得がいかないにしてもうなずくしかないことになってしまった。