病んだ魂22

いったいなんなんだろう。
私の文章というのは常軌を逸していて、直接に接していないひとからすると異常に違いない。
あるいは、直接に接しているひとが私の文章を読むと、印象の落差でもっと異常だと感じるかもしれない。
それが実際に読んでくれるひとがいるのであって、はっきりいってそのことを自分で受け止められない。それで何かやけくそになってしまったのであるけれど、やけくそになりつつ謝ったところでなんにもならない、何か凶悪な感じになっているので、そんなものが再生につながるとは思えない。読み返して自分でげんなりするのだけれど、こう書いているこの文章も、あとで読み返すとげんなりするのだろうか。
と、書いているこれはいったいなんなのか、独り言のようなものなのだろうか。そんなものを公にしてしまうことに、何か意味があるだろうか。
なぜこんな事を始めて、続けているのかというと、しかしそれなりにはっきりしていたのだった。独り言、日記のようなものであっても、誰かに読まれるかも知れないと感じながら文章を書こうとしたのであって、そのことで思考力を鍛えようと思っていたのであった。
が、まずは知人に読まれないところから始まったのだけれど・・・私のブログをほんのひとりふたりの知人が知ったのはいつからだったろう。さらに、ミクシィにもブログと同じことを書き始めたあたりでまた様相が変わった。
それから少しずつ精神状態が不安定になったのだけれど、ミクシィが原因ではないのだけれど・・・。



文章は、書くべきだと思う。
考えていることは、ろくでもないことだ。そのことを自覚すべきだ。
その先・・・私は糸の切れた凧のようになってしまって、しかしなんとかバランスを保とうと、しているのだけれど・・・。
文章も、音楽も、構成が必須だ。絵画、美術もそうであるけれど、その構成がより恣意的にできるだろう。文章や音楽は、決まり事から逸脱すると、かなり困ったことになる。絵画、美術もそうであるけれど、その様相はかなり違う。「決まり事」が、受け手の側に多いというか・・・。
そのようなことから、文章を書くことはかなり有益であり、必須とすら思えるのだけれど・・・。



別の話だけれど。
印象の落差というと、直接に接しているひとであっても、その人脈の違いで私に対する印象はかなり違うと思われる。それも、いつからか、どんなことと関わってそうなっていったのだろう。
もとからその傾向はあったかも知れない。
私の人脈は、それなりに多い。利害関係が伴わない、あるいは一致している部分の多いものがほとんどだけれど、お金が絡んでくるとそうはいかないものだ・・・つまりは仕事の場面ではなにか嫌な風が吹くことになる。
その原因のひとつに、自分が教員をやっていた時代のことがあると思える。精神的であったり、労働時間的に厳しかったり、そうでもなかったりするのだろうが、そのこととお金とは何か違う世界の話だという、資本主義社会の理屈が通用しない世界だった。
さらに、実際の、公務員以外の労働現場、商慣習といったものも、なにかしらあやしげな手前勝手な理屈が横行しているものであり、「ギブ・アンド・テイク」というようなことも、なかなかうまくいっているわけではない。そういう理屈が成り立たないような、量的にはかりにくいあやしげな事々を取り立てて気にしはじめるおかしな人間たち・・・私も含め・・・疑心暗鬼になる、ひとの話を聞かない、自分の考えをひたすら押しつける・・・。
人間というものがそういうものだということ・・・。
さらに、人を理解しようとすることの弊害。理解されたことのない人が多く、理解してほしいということと、理解できたような気になられてたまるかということの両方が同時に現れることによる、行動の読みにくさ・・・。



私が、私の文章が常軌を逸している点、自分が、自分の文章が異常だと書くことがすでにそうなのだろう。
何か自己観察的な部分に、ねじれというか、おかしなところがあるのだろうけれど、今日はここまで。



カフカアフォリズム集を少し読んだ。
そのことを思い出した。