バイバイゆとり教育

などというタイトルを付けて、教員をやめた私が何をか書こうとするなんて、あるいは天に向かってつばするようなことではないか。敵前逃亡した兵士が逃げなかった者に向かってなぜお前たち逃げなかったのだ、馬鹿だなあと言うようなことではないか。


とはいうものの、腹立たしくてしょうがない。ゆとり教育の問題点はおそらく子どもたちにとってゆとりなどひとつも生まなかったからであって、ゆとり教育に危機感を抱いて塾が流行り、子どもたちの自由に思考、活動する余地がより失われてしまったからで、塾やら家庭教師派遣会社やらのコマーシャルがどんどん流れる状況でテレビが塾を非難するような内容をとりあげるわけがないからであって(NHKもそんなことは言わないけれど)、つまりはゆとり教育そのものが何らかの学校教育の退化を招いたわけではなく、それに伴ってうつろった社会が勝手に子どもたちの創造力と自尊心と生命力を奪っただけの話しだ。子どもたちが塾や家庭教師のために費やし、失っている時間の増加と、学力の向上(あるいは低下)との関連が問題にならないことの理由を、私はそれ以外にもとめることができない・・・あるいは、教育学者たちが馬鹿なのか。そうして子どもたちの貴重な時間を食いつぶして蓄積した富で食っているひとたち自身が精神的メタボリックシンドローム動脈硬化に陥っていることを自ら悟ることは、おそらくないだろうが、例えば似たものとしてグッドウィルの社長の華麗な生活などを見ることが出来るのではないかとは思う。
生産性が低い産業に無駄金が費やされたものだ・・・。そんなものに費やす費用をかせぐために使う時間を、たとえば子どもとともに過ごす時間により費やせたなら、子どもはそれぞれの親から学び、親は子どもから学び、社会は活性化するだろうし。どれほど良い国になっていたことか。


教員は・・・教材研究に膨大な時間がかかるだろう総合教育(?)に、その他の教科の準備ための時間を食いつぶされたのではなかったか。総合教育的な発想は子どもたちのためには悪くないとは思う。多様性が生まれた可能性はあったものの、教員が総合教育のために発揮するべき創造性を準備するためのバックアップ態勢は、あったか? なにかありがたいお題目のようなものを唱えて、なぜこのお題目通りにうまくいかないかと、すっとぼけていただけではなかったか。


バイバイゆとり教育などとは書いてみたものの、それはすがすがしい気分で書いているわけではなく、子どもたちの時間はやはり奪われつづけ、こどもたちの時間を奪うために働く親たちの時間も奪われつづけ、社会の活力も奪われ続け、それを無駄にするしくみで生きている人たちの精神も荒廃し続ける状況が続く間のほんのひとこまを、記憶にとどめるためにつぶやいてみただけだ。しかし、こんなことを書いている私自身もなんと空しいものか。