現代の殉教者

最近ハーヴェイ・ミルクに関する映画がつくられたらしく、「ミルク」というらしい。私がすこしだけ関わっている映画館でも上映するようだ。
その関係もあって、ドキュメンタリー版「ハーヴェイ・ミルク」も上映するようだ。懐かしい。私も見たのだが、84年の映画であって、25年も前のものであって、私は当時18歳であって、見たときには19歳か20歳くらいだったのだろうか。
情けない・・・。というのはミルクという人のことではなく、彼の死にまつわることのばかばかしさ。映画全体に対してはうつくしいものを見たという感じが残っているが、ストーリーなどはあまり良く覚えてはいない。


まったくまとはずれだとは分かっているのだが、ミルクの映画のことを知ってすぐスティーヴ・ビコというひとを思い出すきっかけがあり、ビクトル・ハラも思い出し、「現代の殉教者」なんていう言葉が浮かんだ。


次いで、マルコムXマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、マハトマ・ガンディー、幸徳秋水大杉栄などという名前が浮かんだものの、宗教と関係が深いことで死んだわけではないので殉教ではない。ミルクやサンフランシスコのマスコーニ市長が殺されたのは、ばかばかしい理由だ(その犯人の裁判が不審極まるようだが・・・)。
ある意味旧弊かつ抑圧的な権力に反抗して事件で命を落とすことになったひとたちではあり、しかし、彼らを抑圧したものとか結果として殺したものの正体とは・・・。


大杉栄がうかんだというのは、このなかでもさらにちょっと毛色が違うなあ、と、思ったのだが、甘粕正彦というひとのことを、李香蘭山口淑子さんのことを紹介したテレビで見ていて、それで思い出したのだった。甘粕正彦満映の理事長だったとか、その満州での意外な一面など・・・。が、別の話であり、しかし大杉などを殺す方の側のひとというもののとらえ難さを表しているかも知れない。


このようなひとたちに敬意を覚える部分はある(大杉のことはよくわからないのだが)が、何か現実のことのように思えないという感じの方が強い。それが問題なのだ。たしかに彼らはこの地球上にいた。彼らを殺すような何ものかを形作っているひとたちや、その勢力(?)を結びつける何かはこの世にいまだ存在しているのだろう。彼らのような人たちを殺す必要がなくなっているかも知れず、しかし、「発展途上国」「低開発国」などではある時には彼らのようなひとが立ち上がるだろうし、やはり殺人ということはより容易に目的遂行の手段の選択肢として選ばれうるのだろう・・・。
あるいはこのリストでは殺される立場になっているひとのほうも場合によっては殺すことをえらぶかもしれない。坂本龍馬がしたかもしれないように?
そういえばサルトルがどこかの国の社会運動に関与したという話を思い出したが、関係があるようなないような・・・このことは「彼らのような人たちを殺す必要がなくなっているかも知れない」ことと、関係があるようなないような・・・ないな。


と、いうようなことと、関係がない私の日々、そのあたりまえのようなことが、あたりまえだということは、はたして自然なことなのだろうか、ということが問題だ。