逆行できないプロセス

と、いう言葉を思いついたが、なにやら怪しげな感じではないか。外来語の採り入れ方が怪しいだろうか。
プロセスというのはなんだろう。過程か。
逆行できない過程・・・過程とはなんだ。過ぎ去っていく道のり・・・? ネット上の三省堂の国語辞典で調べたら、「進行・変化の途中の段階」とある。
このように時間とかかわりのある言葉は、扱いが難しいような気がする。進行していくものはそもそも逆行しないのではないのか、ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずと。しかしそういうように川が少しずつ流れを変えつつも絶えず流れているようではなく変わるのが人、人ほど変わりやすいものはない。同じ人に対し、数秒後には同じ感情を持つことが全く出来なくなるようなことは多い。
と、書いては見たものの、同じ人に対し同じ感情を持ち続けることの方があらまほしいと考え、そうするための努力をするというものが人の常であり、それは彼のためだけではなく、我がため、吾を保つためでもある。そして、その同じ感情を保つことが出来ないまさにその原因がそこにあるというようなことがあるのではないかと思ったが、実はここまでが余談だ。


こんなことを思いついたのは、郵政民営化についてあるエピソードを読んだからであって、そう書くとどうにも興が冷める感じがするものの、あんなあたりまえの建物とそこの中にいる人と、そこから出発して郵便物を配る人たちなど、そういう人たちとその道具のあつまりである、いまはブンカツミンエイカされたらしいけれど、そのまえはしかしなんだったのか、郵政省というものとその下部組織とかいうもので、郵便局とそのなかまたちというようなものだったのか、そこに所属していたというか下部ではなく上部で民営化に反対だった人が今は再び公社に戻すなど冗談ではないと言っているらしく、しかしそれはやっぱり民営化して良かったというような話ではなく、ミンエイカは本当に難事業で、それをもとにもどすようなこともやはり難事業であると予想され、そんなことを二度としたくないというような話だったと思うのだが、しかしいつ読んだかも何で読んだかも、あるいはテレビで聞いた話だったかも思い出せず、内容にもだんだん自信がなくなってきた。
しかし記憶が間違っていたとしても大いにあり得るような話であり、何か政治の操作があらまほしいというときに見落とされている部分のようであり、取り返しのつかない事というものがあるのであり、実はそんな大きな話ばかりではなく、毎日そんなことばかりで、社会でうごめいている人たちは毎日そんなとりかえしのつかないことを繰り返し、その多くは評価しなおしようもなく続いていくしかなく、そうして個人を押しつぶしたり自殺者を増やしたりしながら、社会としてもアメーバのようにうごめいている。


アメーバの一部を拡大していくと小さな細胞としての個人というものがたくさん見えてきて、そうしてそこに私自身も発見できるという次第になるわけだが、そんな私も社会の一員として、例えばくしゃみをしたようなことが連なった先に誰かを殺すことになったり、逆にどこぞの誰かにちょっとした喜びを感じさせることになぜかつながったり、というのはもちろんほかの誰かの反応も関わってと言うことであるのだけれど、あるのだろう。そして、全てが逆行できない。
誰もが殺人者。誰もが創造的活動のプロセスにも関わっている。


また郵政民営化ということを例に挙げるといかにもな話だが、何年だか後に是非を検討すると言って、実は現在の総理大臣の麻生氏は見直し再検討することを辞さないような側の人間であったはずが、そんな人が総理であっても、実質的に批判的に検討することがよからぬことであるということに選挙の理屈か政党の理屈か、一枚岩にならねばということか、そんなこんなでなってしまうということが分かったわけで、もう少しちゃんと検討してからやるべき部分もなしくずしに進んできてしまって、おおむねあともどりが出来ないことが多いのだろうなあと思う。


そんなことは、例えば無実の人を有罪にしてしまうプロセスでもあったようであり。
いとも簡単に目的が消えてしまい、事業は続く計画なども多く。
主張が通らなければ、そうではない状態以外を検証できないことどもが多く、結局は正しかったのか間違っているのかわかりにくいことを受け容れているだけのことが多く、そうして人生や歴史が進んでいく。
やらなかったことも、やってしまったことも、後悔するしかない。あるいは、正当化するしか?


歴史から学ぶとき、あるいは過去を振り返るとき、簡単に結論を出さないために。