ビートルズ

ふと、ビートルズの音を思い出し、マジックだなあと思う。どうしてこのようなもの、音の連なりが感覚と知覚をゆさぶり、その再編成を迫るようなことになるのか。


いろいろなことがつまらないと思うこと、この世間、(世界?)はおかしいと思うことなどのもとをたどると、それは様々な体験から作り上げられてきた感覚と知覚の樹のようなイメージの根をたどっていくようなことになり、そのイメージの源泉のなか、幼児体験等の非言語的なものがよりはっきりし、感覚と知覚を総合してある種知的なまとまりを持ってきたあたりに、ビートルズの存在が大きくあることに気付く。


じつはそれほど決定的ではないかもしれない。たとえば、「アルプスの少女ハイジ」であったり、「太陽にほえろ」であったり、あるいは「大岡越前」かもしれないし、「肝っ玉母さん」や、「ケンちゃんシリーズ」かもしれず、「元祖天才バカボン」、「トムとジェリー」、「宇宙戦艦ヤマト」・・・テレビばかりだな。「北の宿から」かもしれず、「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「津軽海峡冬景色」、または、ピンクレディーか・・・。そんなものが根っこかもしれないのだが。


そこから「未来少年コナン」やらフォーク、ニュー・ミュージック、ロックなどというものがあらわれてきて、「俺たちの旅」の再放送などというものを見たなあとか、「探偵物語(TV)」とか、ビートルズの曲はほとんど聴いているし知っているということになった。
つまりは、道を誤ったということになるのだろう。


ビートルズは確かに新しかったということもできるのかもしれない。しかし多くはラブ・ソングであり、例えば最近「イン・マイ・ライフ」の間奏を聴いてバッハだなあと思ったりしたのでもあり、伝統と無縁ではないという言い方がどれほど適当かどうかは分からないが。おおくはジャズやクラシックの現代音楽の革新性にくらべると穏健でひとにやさしいものでもある。「レボリューション9」などという曲もあるけれど。
たとえば「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」などという曲を聴いていなければ、あんな間奏でなければ、そしてそれに深く感銘を受けていなければ、様々な奇妙な音楽やら、あるいはゲンダイゲージュツのようなものにも興味を持つことにはならなかったかも知れない。
やはり、私が今役に立たない社会人であることにビートルズは深く影を落としている。
でも、最近は初期の、「アイ・ワント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」「シー・ラヴズ・ユー」「アンド・アイ・ラヴ・ハー」なんて曲、「ヘルプ!」・・・たとえば「ア・ハード・デイズ・ナイト」がむしょうに聴きたかったりするのだ。
「ア・ハード・デイズ・ナイト」の歌詞、棒のように眠りたくなるほど働いて、でも、君が僕を知ってるからオーケー・・・。


ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の映像のとおりの人気者、の4人。巨大になってしまう自らの存在に押しつぶされる多くのヒットメーカーよりもうまくやり過ごせそうな明るさもしたたかさも、今思えばありそうで、実際にそうだったであろうとも思う。
次が「ヘルプ!」でも、そんなふうに表していけたからこそやり過ごしていけそうなものであったようでもあり、そこに映っている青年達の様子も単なる虚像ではなかったような気もする。
そんなに豊かな家の出ではなかったよね。そんなひとたちが表現し、それが大きく受け容れられた時代。というか、そういうものこそが求められていたのか。
今は違うのだろうか。


後期、難しくなっていく彼ら。しかし、偉くなっていくようでもなく、もとよりそんなこととは無縁であり続けたようでもある。いまやポール・マッカートニーは、「サー」だが、しかし権力におもねてとは思えず、「労働者階級」のたたずまいを変えてはいないと考えるのは、自分の希望を投影しているだけだろうか。


ふと、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を思い出した。

A Hard Day's Night ? ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!

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