家族の夢

※個人的、かつ若干深刻な内容が含まれていますので、特に私の知人の方は、敢えて読まないという選択をされるほうがいいかもしれません。また、個人的な内容が出てくる部分の前にまた※印が登場しますので、そこまで読むということも可能かも知れません。



ホームドラマの、甘ったるい家族というもの、葛藤があるにしても、解決に至る、そんな強固な絆というもの、あるいは崩壊するということがそもそも念頭にないためにくびきとして感じられることがあるかもしれないにしろ、豊饒とは限らないにしてもそこから生命力を吸収することが可能な土壌のような、家族というもの。
くびきのようにとらえることが流行ったこともあり、実際に時代の変化のために個人を抑圧することが多かったこともあっただろう。旧来の、といってもいつに始まったのか分からない家というものもよく解らないが、団地に象徴される核家族が典型化した時期、それもあるいは過去になったにしても、私の世代はその核家族の時代に子ども時代を過ごしたなれの果てに新しい核家族をつくったりしている世代として今生きているとかいう言い方が、それほど適当ではない・・・同世代の知人には独身の人が多く、少子化をもっとも推し進めてしまった世代だとも思える。が、こんなことをなぜ私は書いてしまっているのか自分でよく解らない。が、核家族というものもよく解ったものではない。そして、また今は違ったイメージで、あるいは多様に家族というもののイメージを集団的に、ゆるやかに共有したり、していなかったりするのだろう。社会で。


いずれにしても、何か、温かい家族というような、テレビで見られたような、大衆的なイメージが、それと同一化しやすい場合はともかく、そうでない場合に現実の家族の人間関係に破壊的な役割を果たしてしまうこともあるだろう。自分の家族は、家族と呼ぶに値しないような欠陥のあるものではないかと考えること。ドラマの中で紆余曲折がありながらも何となく解決していくようなたぐいの問題も、現実の、人間関係にあまり恵まれていない家族では決定的な事態としてそこに関わるものに暗い影を落としてしまうことになるなど。


「妻をめとらば」で始まる言葉のつらなりは、ホームドラマの中に置かれて何か普通のもののように無毒化されるにしても、そんなホームドラマ全体とは関わりがなく愚劣なかたちで日本男児とやらの脳に巣喰ったりしてしまうことが多かったようでもあり、単純なフェミニストのようにそれを否定することも、実際に家族であれば難しい部分もあるだろうし、そんなに簡単なことでもないかも知れない。
あるいは、女性の側のロクなオトコがいないというような言葉、実際に自分の身を振り返って全くそうだなあと思うにしても、「妻をめとらば」と同じメンタリティではないかと思う部分もある。フェミニズム的にはどうなのか、むしろカウンターとして現実を健やかにするものなのか。私には受け容れやすい感じがしないでもないが、はたしてそれは自虐的であって、それこそロクなオトコではないことの証明のようでもある。


そもそも理想というものが人を傷つけることがある。理想の恋愛、結婚、家庭のイメージなどが障害になって恋愛や結婚ができないということがあるかしれない。恋愛、結婚、それぞれのプロセスで現実を容認できないのは、彼ら個人の不寛容ではなく安易に消費してしまった安易な、あるいは安易ではない物語、あるいは物語以外の感覚的刺激で補強されたあいまいなイメージの複合体が、世代を過ぎていくうちにある種の人たちを内側から壊してしまうというようなことが。


これは、ホームドラマやテレビというものを批判する意図があるわけではなく、そういうよりは、弱い人たちの話を書きたいのかも知れないと思えてきた。理想は強い人にとっては杖になるものが・・・。
私は弱いのであり、自分は弱いなりの違った生き方をそれなりにうまくこなせる知性を持っているというような思い上がりをどこかで持っていたのかも知れず、しかし、強くなければならないのかなあと思ってしまったのかも知れず、とにかくひとりのひとが全方面に強いわけではなく強い部分と弱い部分を持つというだけの話でもあるかもしれないが。


いずれにしろそれらのこととはあまり関係がなく輝く記憶というものがあり、それは必ず個人的なのかもしれず、それを忘れないことが生きるよすがのひとつのようでもあり、それを捨てていくことが生きる道のようでもあり・・・。



※個人的なことを書こうとして書き始め、まず※印付きの前置きを書いてみたのですが、そのうち個人的な内容を書く必要がない方向に走ってしまいました。個人的であるようでもありますが・・・。
つづくかもしれませんが・・・。