私は誰だ? 5

考えるための土台というようなもの、いつからかなくなっている。


天理教という宗教では何か空間の一点が基準になっているというようなことを聞いた覚えがあり、それは面白い、なるほどと思ったものの、実際の宗教には何か面倒なことごとがごちゃっとくっついているのだから、教義というものは結局のところは虚をついて終わりであり、何か悟ったような気持ちになることの快感のようなものがポイントになってしまう気がする。いや、快感は大事だよね。大事だけれども。だから何かヒントはあるかも知れないが。
天上天下唯我独尊ということばの原典やら解釈についてはほぼ知らないと言っていいと思う。やはり何か面白く、参考になる部分はありそうだが、とりあえずは鬱陶しい自意識・・・あるいは単に自分がその時その時思いついただけの事を人に押しつけるために、心の中で唱えることが多いようでもある。いや、実はそんなことではなく、大きなヒントがあるだろうと思っていないわけではないが、しかしやはり鬱陶しいには違いない。せいぜい生まれたときくらいにしか、言ってはいけない言葉かも知れない。いろいろなことを知っていって、その上で吐くには恥ずかしいよね。そういう問題ではないのだろうけれど、とりあえずは、そんな言葉を吐くのは逆に逃げになることが多いのではないか。本当は違うのだろうが、今の私にはそうなってしまうだろう。
何れにしろ抽象的なことだ。しかし、抽象を整理すると実際の日々の営みが地に足がついたものになるということもあるかもしれない。だからこげな思想のようなものを発明するのだろうか。人は。
とはいえ、今の私には絶対的な言葉は使えない。


これは、否定的な習慣、かつて神経症的だと言ったようなことなのだろうか。
わざわざこんな、ある種の認識論の仲間(だと今ふと思っただけなのだが)について考えてもしょうがないし、普通はこんな事を考える必要はない。


まあ、私は普通ではなく、そのこと自体はいいとも悪いともいいがたいが、現状、苦しく、どうしていいかわからないことばかりだ。が、こう書いて何かすっきりはしている。
言いたいことは、分かったような口を利いてんじゃねえよ、というようなことのような気がしたが、恐ろしいことに、私ほど分かったような口を利いてばかりいる人はなかなかいないようだ。なんてこった。


それでもやはり、上記のことを書いて少しすっきりした。すっきりするわけがないはずなのだが。
そして、やはり考えるための足場のようなものはなく、思考を一歩踏み出そうとしても地面にめり込んでいくような感覚があり、すっきりしたはずの快感はすぐに消えるのだが・・・。
そういえば、昔、書を捨てよ町に出ようとか、見る前に跳べとかいう言葉があって、いやーな気持ちでその文字を眺めたものだ。とにかく一歩踏み出すしかないのだろうが、しかし本当にそうかなあ。
そして、案外私はやみくもに走り回っていたような気がしてきて、休んだほうがいい気がした。あるいは、立ち止まって考える方が。落ち着け。落ち着け。しかし、それはそれで気持ちが沈む。
動けないまま、もがいていたのが悪いのであって、止まって身体の、また脳みその力を抜くことが大事なのか。


むずかしいなあ。