私は誰だ? 6

かなり煮詰まっている。
ひと息、どころか傍目にはサボタージュ以外の何でもない日々、それを開き直りたいところで、できない。
人目を気にする。人目がないところに・・・。
気持ちの中では、ひと息も付けないという、不必要な焦り。


名前が思い出せない・・・奥田民生の、あれはユニコーンか。「ひとのいないとこへ行こう、休みが取れたら」、このことばからひとびとの心に浮かぶはずの、各々ちがうはずのイメージ、しかし、共通するはずの、ひも付きではない時間という感じ。

それを、求めている?
美術をやるためにひとりの時間を求めたものだ。しかし、締め切りというものがないとふやける自意識。
ひもを付けてみて、今度はそれがうるさいと言う、駄目な僕(byブライアン・ウィルソン)(ごめんなさい)。

誰かとスケジュールを探る事が楽しければその縛られた時間も全然ひも付きじゃあない。
音楽はそんな感じであった。
それにひもを付けられた感じから、7、8年経ってしまったのだろうか。残念な感じ。
縛られているようであっても、つまりは心の持ちようだとは思うのだが。それだけか?

いや、私の問題であり、それだけではない。誰かが自由に表現する事は、誰かの自由を制限する事だ。
そのことへの自覚を持たない表現は、未熟だ。逆にそのことへの過剰な意識に縛られるのも、愚かな事だ。
さらに、このようにとらえられる状態ばかりではない。
しかし、自由とは・・・さらに、表現ということは?
あるいは、誰かに自由を奪われたいという、そんな人のために、私なら押しつけがましいと思うような表現が受け容れられる事、大変気持ち悪いとは思うものの、そんなことが普通かも知れず、つまりは変態的な社会? ・・・しかし、それは変態というわけでもないか。安心したいのだから。

とか、考えたところでようやくひと息つく。
信じられない、ありえない、社会が認めてはいけないくらいひどいモラトリアムだという誰も面と向かってそこまではさすがに口に出さない非難の声が、ちょっときこえないふりをする。

しかし、「すばらしい日々」とは。「力あふれ」・・・次は何だったか。


問題はそういうところには無い事に気付いた。所詮は逃げだ。
それが悪いと分かっていて、逃げられない、逃げれば逃げるほど首が絞まっていく、立ち向かうといいはずだが、逃げるために立ち向かうふりをしているだけのことに、自分で気付かない。
などと。ややこしくしてしまったのも逃げはじめてからだ。いつからか、思い出せないほど逃げ続けて、逃げないとは、しかしなんだ。
こんな抽象論にかかずらわったりしないことか。
ああ、そういえば逃走論とかいう本があったなあ。

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)