父が消えた 3

書き言葉というものの不合理な点、たとえば面と向かって話す場合は、話す人の意図と違うかも知れないことを、話し方などから察して修正する、というようなことが出来る、が、手紙やメールなどは、できない。
ということに関係した文章を読んで、それはとても良かった。これから何度も読み直そうと思う。


書かなくても頭に浮かぶ言葉、言葉にすらならない感情、気分、現実との乖離。
こんなことは、あたりまえのことだが、よくあることで、しかし、私たちはどうしたらいいのだろう。
あきらめたほうがいいということもあり、あきらめたら死んでしまうような状況もある。
自分のこともそうだが、誰か、現実から外れてしまうようなこと、家族や、友人、知人・・・人間というものはひとりだということだが、ひとりだということを考えない思考習慣は煩わしいものだけれど、社会とか、人間関係というものは、なんだろう。


つまらない人間ということがあり、ひどい人というものがある。そのありようも様々、つながりの中でそういうひとがうまく収まればいいものの、ひとりの人をとってもそのつながりは一筋縄などではいかない。
その、つまらない人はあるべき場所にないということかもしれないが、人はいる場所で出来ることをすべきだとも思う。しかし、そんなこともうまくできない人というようなこと。そういうとらえ方もあるとは思うけれど、そのことが運命的になる、自分の決定的な要素だと感じる。
そんなことから抜け出すことは難しい。



嫌な人とは会いたくないという、歌、井上陽水の、ちょっと違うけれど、そんなような歌詞の。それはあたりまえだけれど、言葉にはあまりしない。その歌が聞こえてきて、嫌な感じがした覚えがある。もう20年とかそれくらい前かも知れない。
嫌な感じは、何か自分の醜い姿を鏡で見てしまったようなものだ。



尾辻克彦さんの「父が消えた」を読み直したが、内容はほとんど覚えていなかった。でも、読んだ記憶はある。
尾辻さんの文章を読むと、影響がある。何か軽い気持ちになって、問題が解決するような気持ちになって、文章を書いてしまったが、軽率だったかも知れない。
こんなことを書くことの意味が分からないが、やってしまった。
言葉の調子に少しわざとらしい癖が出ていて、それは尾辻さんには感じられない、文章を真似してしまう人の残念な感じなのではないかと思う。そんなことはどちらかというとどうでもいいだろうか。
尾辻さんの場合には、実物の感じ、過ぎていく時間の流れ方が普通の写実という以上に、立体的に、触覚的といってもいいように・・・内触覚ということばがあったかもしれないが、そんな感じでしっかりしている。
たぶん私の文章にはそんなことがないだろうなと思う。抽象的なことになってしまっているから、全く違う。



思いつくことのうち、何かを書いて何かを書かないか。いくつかの記憶を思い起こし、考えたこともあった。しかしそのほとんどは書けないなあと思った。書いてしまったうちのいくつかは、書いて失敗したのではないかと思う。
しかし、しょうがないのではないか。失敗したくなかったのが悪かったのではないかと、ふと思った。