マンドリンオリジナル曲について4

マンドリンオリジナル」という言葉・・・ジャンル? 吹奏楽のオリジナル曲なんていう言葉もありますね。わざわざそんな言葉をつかうのは、吹奏楽オケの演奏を聴く人が世界的にはフルオーケストラを聴く人より少ないからでしょうか。マンドリンオケはさらに、ずっと少ない。弦楽オケも少ないけれど、フルオケのプログラムに一曲だけ入ったりしやすい。
で、フルオケのレパートリーになってしまうような曲を書ける作曲家、という書き方は転倒しているのかも知れずそうではないかも知れず、フルオケの曲を書いたときに取り上げてくれるオケのあるような作曲家は、吹奏楽オケとか、さらにずっとマンドリンオケの曲はあまり書くことがなく・・・ということはあるかも知れないけれど、さらに、もとから多いフルオケのレパートリーにもずっと残っているものがあり、その世界の競争たるや聴衆も演奏家も批評家も教育者も数の違いも、それゆえ質の違いも断然違うということになる。
と、吹奏楽マンドリンを同様の理屈でひとまとめにするというのは無理がある部分と同様な部分と両方あると思うが、吹奏楽はアマの割合が多くてその世界ではマンドリンと似た事情がないわけではないだろうと、ブーイング覚悟で書いてみるわけです。
かつてのイタリアやドイツの吹奏楽がどんなものなのかはわからないけれど、日本の場合は小学校、中学校、高校レベルでの吹奏楽人口とマンドリン人口など比較するまでもなく・・・。
ただし大学になるとかなり事情が違って、大学に来てまで吹奏楽をアマチュアレベルでやろうというのもちょっと物好きで、というのは音楽の道に進んでしまった人の抜けた喪失感を味わうから・・・と、思ったけれど、全体のスケールがやはり違うから、どうなのかな。とにかくマンドリンは大学生が始める率が高く、だからそんな気配を感じて大学で初めて音楽をやる、なんてひとの率も高いかも知れない。私もそうでした。
ということは人口の少なさもさることながら、全体的に、相対的な奏者の演奏能力が低いということも、あるかもしれない・・・。
そういうわけで、マンドリンオリジナル曲の総数もレベルも極めて低いとか、言うことが、でき・・・るかどうかわかりませんが、マンドリンオリジナル曲はクラシックの名曲にくらべると質が低いからなんとかかんとか、ということがあって、一理はあるけれど、そんなことを妙にヒステリックに主張するひとが多いけれども、それは変で、そうならマンドリンオリジナル曲をやらず、そういうことを共感できる仲間と勝手にくらしっくの名曲に優れた編曲を施して頭角を現せばよろしい。そうすりゃ趨勢は変わるでしょ。


とはいえ、直感的にオリジナル曲では飽き足らないという思いにとらわれるということはあります。
オリジナル曲同様に評判の悪い編曲もの、しかし、大学で音楽を始めたばかりのハンパな楽器弾きにも、クラシックの曲の編曲ものを弾いたとき、その音の連なりの見事さに、演奏を客観的に把握することが出来ないためもあるかもしれないけれど、うっとりしてしまう。例えば私はセロ弾きなのだけれどオケのチェロのパートそのまま、あるいはバス進行を感じられる(ように、いかな下手な人の編曲でも、なるのだろう)などでその歴史に残る芸の見事さの一端をかいま見るときに、こんなスバラシイオリジナル曲はないのか、と、オモッテシマイマスネ。ここでセロだということもちょっとしたポイントで・・・。


しかし、ここでまた反転して、質が高いもの以外はゲージュツとして認めない、という視点をあまり取らない人間だ、私は、という問題が急に浮上してくる。というときに、私が美術をイチオウセンモントシテイル事が関係していて、ミケランジェロはとにかくすごくて、好き嫌いもあるだろうけれどやっぱりすごいものはすげえじゃん、だけど北海道で活動している人の中にも、好きな彫刻家さんはいる。ということと、バッハはやっぱりすごい、でも、私は北海道で作曲活動をされている木村雅信さんの曲がけっこう好きだ、ということが関係してくる。
とはいえ、音楽一般を考えると、探求心が沸いてきて、今はたとえばフォーレやヴィラ=ロボスにかなり関心があるのだけれど、その関心に近いマンドリンオリジナル曲が、あるのかもしれないけれど、フォーレやヴィラ=ロボスそのものとは違ったりするだろうと思う。やっぱりセザンヌやクレーはいいなあ、道展を見るより幸せだ、というように。
でも、私が北海道にずっと暮らしているし、自分も作品を作るため、北海道で作品を作っている人の作品に、他の人や今まであっものと違ういいものを見つけると、セザンヌやクレーを見るときに近い要素と違った要素の混じった、違ううれしさがある、こともある。そんなにないけれど。


というわけで、ずっとマンドリンの世界で、だんだんといろいろな曲を弾いたり聴いたりしていると、マンドリンオリジナル曲の中でも、いいなあと思うものが出てくる。
楽器を始めた当時は、とりあげられていたレパートリーのほとんどが、楽器が弾けるようになっていく喜びもあってか、弾いて楽しいと思われた。それは別の話。
そのなかでもつまらなく感じられるものと面白いものとにわかれていく。そしてだんだんつまらなく感じるものが多くなっていったけれど、そのなかでも、より喜びが感じられるものがある。
当初は日本のものが好きで、藤掛廣幸さん、大栗裕さん、久保田孝さん、熊谷賢一さん、鈴木静一さん、みんなけっこう好きだったけれど、だんだん飽きてきて、アマディのほうが飽きないなとか、ボッタキァリのほうがなんか面白い部分があるぞとか、やっぱりファルボはちょっと別格にいいかもしれないとかいうことになって、ファルボがかなり長い間最高のマンドリン作曲家だと思っていた。でも、木村雅信さんが、あまり誰もやらないけれど、それに近い面白さがある、何より明快だ、とか思っていたことも・・・。柳田隆介さんの、「マンドリン合奏のための2章」が好きだ。
今年は演奏会でアマディの「北欧のスケッチ」をやり、この作曲家の美質を再確認でき、幸せだった。いままた、武井守茂さんの「夏の組曲」をやる演奏会に参加することになり、面白い。
あとは、ドイツのアンブロシウスさん、面白い。


いちおういろいろとマンドリン界をチェックしたり、自分でも何のためだろうかと少し思いながらしている。ネットでも。そうすると、世界ではマンドニコさんという人と桑原康雄さんという人がどうやら注目されているようだ。
マンドニコさんのほうは「ミュージック・フォー・プレイ」という曲を札幌でもよく聴いたけれど、イマイチ・・・この人の他の曲はこれよりはいいと思うので、この曲が流行っているのは大変不思議だ。
桑原康雄さんは、「初秋の唄」という曲が国内でも、海外でもひんぱんに取り上げられている。去年演奏会で聴いたが、いい曲だと思う。この時間の流れ、いままで感じたことがない。情緒と音楽の関わり方も、そんなに経験した感じのないものだった。面白い。余談だけれど、桑原さんのマンドリン協奏曲の「籟動」という曲の音源がネットにアップされて、聴いたらすごいのだけれど、1楽章は、芥川也寸志さんの「トリプティーク」3楽章を思い出させられた。もうすぐ札幌でも演奏されるのだけれど、残念ながら行けない。
あと、アイリーン・パケナムさんという、去年亡くなられた方の曲の、さわりだけアップしている団体があって、おおいに興味があるのだけれど、触れる機会があまりなさそうだ。


現在は、ミラネージ、ジュセッペ・シルレン・ミラネージさんが、気になっている。
最初ちょっと気になっていたのは3年くらい前のことで、京都の石村隆行さんという著名なマンドリニスト(?)の方がとりあげたのが素晴らしかったという評判で・・・ちがうか。この噂をネットで読んだのは最近かなあ。いずれにしろその頃中野二郎さんの蔵譜を所蔵した「中野譜庫」がネットで公開されていて、そこから手に入れた楽譜データが何曲分かあった。「誕生日の幻影」(?)という曲の打ち込み音源を公開されている人がいて、楽譜をプリントアウトして音を拾ってみたら、面白い。
1年前くらいからまた気になってきていて、昔弾いた「主題と変奏」がすごくいい曲のような気がしてきた。昔は分からなかったけれど。ネットで聴いた音源が、美しい音楽だった。ネットでこの曲のことを天上の音楽と書いているのを読んだことがあるけれど、同感。
その頃「春に寄す」という、マンドリンマンドリン、ドラ(コントラルト)、セロという編成(私の参加しているアンサンブルは当時その編成になることが多かった、ただしドラはもちろんテノールだけど・・・)の四重奏曲を見つけてプリントアウトして、ちょっとたどってみただけで目眩がしてやめていた。四分音符が172と書いてあると思ったのだ。この度ワタクシいつか試しにでも弾いてみようかと、少しずつ打ち込んで、楽譜をつくっている(著作権大丈夫だったかな・・・)。その途中で再生してみて、たぶん四分音符は72ではないかと思った・・・。
その打ち込みはまだ20小節前後なんだけれど、再生してみて、その面白さにちょっとびっくりしている。なにこの躍動感、軽快さ、ちょっとモーツァルトを思い出すけれど、時代はすすみ、半音階のパッセージなどももっとちがった形で入ってきている。変化の自在さ、パートの結びつき、複音楽の部分と和声的な音楽の部分のバランスの良さ、という言葉は合っているかどうか分からない、しかし楽しい!


長年、ファルボが、特に「スパニア」が、好きだった。
ファルボの四重奏曲の編成も同じで、試奏したこともあった。「スパニア」ほどは好きではなかったし、難しかった。
「春に寄す」、20小節ですでにファルボの四重奏曲よりも断然好きだ、が、難しさももしかしたらかなり上かも知れない。しかし、打ち込んでみただけでもかなり幸せだ。
びっくりだ。こんなことがあるんだなあ。
作曲家としてはまだファルボの方が好きだ。いままでの愛着がある。が、ファルボの残されている曲はとにかく少ないしなあ。いつになるかわからないけれど、「春に寄す」を打ち込み終わったら、逆転するかも知れない。
こんなことも、あるんだなあ。


むかし、「主題と変奏」を弾いたときの、次の曲が「スパニア」、今ならとんでもない贅沢なプログラムだったと思うのだけれど、「主題と変奏」は変な曲だと思っていたし、「スパニア」も、なんだかよく解らなかった。4楽章のセロを弾けた人はいたのだろうか。3楽章も楽譜を見失う人が続出して崩壊したのではなかったか。4楽章も・・・。しかし、何かずっと引っかかっていて、中野譜庫で楽譜を手に入れてあらためて弾いてみたときの幸せな気持ち・・・。
このときの、指揮をされた、たぶん選曲もされた、九島先生という、北海道のマンドリン合奏の草分けの方、この選曲のために、折に触れて、何度も思い出す。怖かったのと、笑顔を。


実は私もマンドリンオリジナルなんて、と、思っていたけれど、そんなこんなで、そう侮らなくてもいいのではないかと思う。根拠になっていないかも知れないが。
バッハが最高だということばかり言って満足するのではなく、様々な場所、時代、立場で自分の出来ることを続けることは、無駄じゃないと思う。


しかし、ここまで読む人はいるだろうか。そして、すごい時間になってしまった・・・。