アマチュア音楽のアプローチ

「上手い下手に収まらない何か」を追求したい、と書いた。このような私の姿勢は逃げとか楽をしたいからとか、そういうニュアンスで非難されるようなのだけれど、まあ、確かに努力は嫌いだ。
目指しているのは、上手さではなく、面白さだ、という選択はあり得ると思う。ただ、実際は上手くならなければわからない面白さもある。だからこの非難は有効だ。ある意味。


ただ、上手くなっても、つまらない演奏は確実にある。そして、プロフェッショナルに顕著だと思う。私が今まで最もがっかりした演奏会は、日フィルだ。個々人はオケの世界ではたいしたことのない人なのだろうが、給料も安いのだろうが、プロが、ミスをしようがすました顔でやっている。ふだんあまりオケなどを聴かない地方都市の聴衆はそれがとてもひどい演奏だということはわからず、クラシックがつまらないんだと思っただろう。会場を後にする人たちの沈んだ顔、彼らは人生の貴重な時間を無駄にしたのだ。
対照的に、演奏技術ではもっとひどいアマチュアの弦楽オケの演奏も聴いた。ハイポジも多いそれなりの難曲、名曲、音程が定まらない。耳がいい人だと耐えられないかなあ。聴衆はしかし、手に汗握って聴いていたかもしれないが笑顔で帰る人が多かった。
チケット料金の違い? 知り合いが出ていたからということもあるだろう。ただ、集中力も全然違ったなあ。真剣にやればしなかっただろうミスをして、平気だということは・・・プロなら何度も演奏するだろう、ドヴォルザークの8番で、気の抜けた音を出すこと。レパートリーが少ないとはいえ、それなりの覚悟をしないとできないだろうドヴォルザークの弦楽セレナーデをプロでもない弦楽合奏団で取り上げることの緊張は・・・。
と、いうようなことは日本のどこでも起こっているようなことなのだろうか。
無謀なアマチュアと、たまたま手を抜くことにしていたのかもしれないプロの話?


マチュアといえば音楽、楽器教室の発表会のような性格のものがある。先生に与えられた曲を、あるいはみんなで選んだ曲を、ときには先生の指揮で、あるいは先生といっしょに弾く。私たちのやっていることは、それとはずいぶん違うなあ。あの弦楽オケは、ちょっとだけ知り合いの人が指揮をしていたけれど、いわゆるセンセーではなく、その人もけっこうアマチュアな感じの人で、あの人たちも、ちょっと違うんだろうなあ。


マンドリンをやって、いやマンドリンでなくてもいいや。アンサンブルや合奏をする。よほど上手くなければひとりではできない。いや、誰かに聴かせようと思わなければいいのか。でもそうだとして、ひとりでやって楽しいのかなあ。そんなこともたぶんあり、何人かで集まり、なんらかの相談をして、続ける。合奏になって人数が多くなったりすると、どちらかというと中心になる人とそうでもない人が出てくる。アンサンブルでもそうか。私たちは案外平等かなあ。民主主義に毒されているからかなあ。
いや、マンドリンはちょっと違う。吹奏楽や合唱もアマチュアのひとがほとんどだが、何かちがう。吹奏楽のプロも少ないが、マンドリンのプロは・・・。そういう問題じゃないか。ただ、マンドリンはちょっと不思議なかたちでイタリアで流行ったし、土地ごとに違った形だろうけれど、もともとのイタリアでの流行り方が他の国でも影を落としている気がする。


好きだから、楽しいから続ける・・・とはいえ、聴きに来てくれる人が楽しくないようなコンサートになるなら、そんなことをして本当に楽しいのか。結局、何が楽しいのか。
楽器が弾けるようになってきて、上手くなっていくことは楽しい。それは、いつまでも続くのか。続けていて楽しくなくなること、そのほうが普通ではないのか。なにかが足りなくなるから楽しくなくなるのか。


コンサートをすることと、カラオケで何人かの前で歌うことは違うのか。知り合いばかりの観客席でも・・・。
歴史的に見るとクラシックの流れ、特に純粋な器楽合奏、演奏は宮廷で演奏される中で発達し、続いたものがモーツァルトの時代にブルジョア層が誕生し、多くの市民の前でも演奏されるようになったものだ。そのことには啓蒙思想、ルソーなどの主張の影響が、市民の行動にも、さらには音楽の形式にまで影響している。
などと、とんでもなく生活感覚から離れた辞書の中のはなしを持ち出すことに意味があるとは、誰も思わないのだろうなあ。
でも、バンドなんかでロックやジャズ、フォークやレゲエなんかをやるのではなく、または今なら安い費用でできるパソコンでやる音楽、DTMなんかではなく、分類するとすればほぼクラシックでしかない音楽(演歌をやろうが、オーケストラで歌謡曲を編曲してやることの仲間だと・・・)をやることになってよかったのか。
コンサートで客観的に不快感を与えないために上手くなければならないのではないか。
市民向けコンサート用作品の作者は、ハイドンやバッハの息子たち、モーツァルトからほぼ始まり、ベートーヴェン表現主義的なゲージュツみたいな表現スタイルを確立し、ベルリオーズやロマン派のひとたちやワーグナーなどがその表現の幅を広げていった。
声楽の世界はちょっと違って、スペクタクルの極地としても位置するエンターテインメントとしてイタリアで発達し、各地にもその影響が及んだオペラでは、音楽は一要素にしか過ぎない・・・。
器楽合奏は違うもので、実は王侯貴族たちは自分でも演奏していた。そういう人が聴いても楽しむものとして、発達していたのではないか。そんな楽しみがより多くの人に開放されたのがイタリアでのマンドリンの流行ではないか・・・。弾かないとわかりにくい楽しみ。


そんなことを考えなくても楽しいよね。でも一人でやるならいいのだけれど、そうではなく、何人かを巻き込み、聴く人も集めていっしょに楽しもうとするなら、そんなに簡単ではないなにか秘密を追求しないと、独りよがりになって楽しくなんかなくなるのではないかと思うのだが、そうだとしても、私のこういう考え方もまた楽しくなくなる原因じゃないかと思う人が多いのかなあ。


ややこしいことには、私が美術をやるきっかけでもあるのだけれど、創造的でありたいということがあり、誰かが作った曲を演奏するだけでは片手落ちじゃないかというような意識がある。ほんとうは私も自分で作曲しないと、中途半端な活動をしているだけだという感じから逃れられないような気もしている。
が、そうはなかなかいかず、誰かの曲を演奏するなら、より創造的な曲を選ぶということは、まず第一に考えなければならないことだという感じがあるかもしれない。で、ほとんどの曲に不満を感じるということになり、とはいえやっているうちに意外な良さを発見することもあり、逆に演奏がうまくいってもほとんど面白くないと感じることもある。
何が面白いのか、それを未来を先取りして感じるくらいの感性の働かせ方をすることを目指すべきなのか、というような気がしてくる。


美術の制作で私が感じてしまったことは、表現が意外な意味を持ってくるということ、表現の歴史が、私が何かをしようとするときにどうしても関係してきてしまう、ということ・・・。もちろん過去から学ぶだけということではなく、過去を知らなければ現在から未来へ踏み出すこともむずかしいということ・・・。豊かな土壌としての過去から養分を吸い取ってはじめて未来へ幹をのばすことができる・・・。


個々人のモチベーションから、それが集まる練習の場、演奏会、聴きに来てくれる人たちまで、感覚の交流、感性の流れが、時間を超えて続いていくような、おおきな、しくみ、あるいはたくらみ・・・。
それに必要な材料は、なんだろう。まず、仲間、それから、あるいは酒を飲んでなるべく素直になれることとか・・・案外・・・。じゃあ、そのための丈夫な肝臓もか!