音楽と構造 6

いままでこのタイトルで書いてきたことと全くちがう内容になってしまうような、そうでもないような感じがする。


西洋音楽史」という新書を読んだ。中央公論のもの。美しが丘のブックオフで400円で買ったもの。その、しばらく前には「音楽のヨーロッパ史」という新書を読んだ。講談社現代新書。こちらはずっと以前に買っていたものがあったのに、古本屋で見つけて再び買ってしまった、というようなことは書かなくてもいいんだけれど。
後者は1961年生まれの人が2000年に出した本。前者は1960年生まれの人が2005年に出した本。39歳と、45歳の人が出した本で、10年前と、5年前に出たものだ。私は43歳、というようなことも書かなくていいのかもしれないが。


どちらにしても、私たちが音楽史全般に持っているイメージというものがかなり貧弱であることを教えてはくれるが、そもそも歴史について持っているイメージが貧弱だ。私も。おそらく多くの人も。特に、ヨーロッパの歴史について私たちの生活や、思考法に対してかなり大きな影響を及ぼしているのにもかかわらずほとんど何も知らないに等しいことに気付く。
なにかギリシャ時代があってローマ時代があって、キリストが現れて中性があって、ルネサンスがあって、宗教改革があって、ナポレオンが現れて、フランス革命や第一次と第二次の世界大戦とロシア革命があって、現代になって、という中に順序が違うものがありそうだがご指摘には及びません。
それでいいと思っていたのだが、それではものを考えることが出来ないような気がしてきたのであった。それは、もう35歳も過ぎてからで、遅すぎたか、そんなものになってしまうのはしょうがないのか、よくわからないが。
という話はさておき、音楽については自分の専門である美術以上に詳しいかもしれないにもかかわらず、つまりは過去の美術作品によりも音楽により大きな影響を受け、作品発表は美術で行っているという感じはするのに、私は音楽に関してはとても誤解しているという感じにとらわれつづけている。私は美術に関しても、そこそこは詳しいのですよ。そして、そちらについても誤解だらけだとは思うのだけれど、美術史の歴史の要点をおさえている自信は、音楽よりはある。


という話を書こうと思っていたのではなかったのだけれど、美術に比べて音楽は客観視しにくいかもしれないという気がしてきた。美術作品は見なければいいのだが、音楽は勝手に耳に入ってきたのだなあと思う。言葉がおかしいけれど、これは必然的におかしいと思ってくれてもいいかもしれない。時間の問題、何かを感受する様態の問題。文化状況のこと。


子どもの頃に聴いた音楽。
1.教育テレビや家で買った教材の音楽、覚えているもの、レオポルト・モーツァルトの「おもちゃの交響曲」、教育番組のテーマ、童謡、グリーグの「ペール・ギュント」、など。繰り返し聞いた感じがする。
2.歌謡曲ちあきなおみの「喝采」、「こんにちわ赤ちゃん」(誰だっけ)、坂本九や、演歌などから、ピンクレディーくらいまで子どもだった。青江美奈がどちらかというと嫌いだったが、今は好きだ。淡谷のり子も。いいなあ、「別れのブルース」。
3.ビートルズがいつのまにか耳に入っていた。と、あとあと、わかった。はじめて聴いた気がしないものが多かったのだ。
4.クラシックの曲がいつの間にか耳に入っていた。ドビュッシーに、聴いたことがある感じが強いものが多い。
5.ジャズやボサノバ、ラテンの曲などもいつの間にか聴いたことがあった。
6.映画や、TVドラマの背景音楽。案外前衛的で音色や和声、リズムが現代音楽やジャズに近いものが多い。円谷プロのドラマの音楽、「ゴジラ」、時代劇の音楽等々。ヒッチコックの「サイコ」にバルトークが使われているはずだが、典型的な例として示したいために書いている。類似の音響に、子どもの頃から接していただろうとは思っている。


さっきふと思ったことは、自分の好みの音楽というものは、ないわけではないかもしれないし、同じようなものをほとんどの、かつての子どもたちが耳にしていたはずだが、私の音楽への関心はある意味ゆがんでいるものに向かっているのかもしれないし、感受性が強かったと言えなくもないかもしれないし、しかしたとえそうだったとしてもそれを肯定的に書きたいわけではないとは、いちおう付記しておくが。
しかし、好みなんていっても、上に書いた何倍もその後拡がっていった広い選択肢の中から自分の好むものを選択していったとしても、そもそも、その選択肢も、ほんの狭いものに過ぎなかったのだ、と、思う。
相対的なもののとらえかたをしようとしているのかもしれない、そのことに意味があるのかどうかわからないが。
音楽の受容スタイルはつい数十年前までは全く違ったので、私の受容の仕方で可能な音楽体験というものは、ある意味現代の短い一時期のひとがしている、体験の種類としてはそんなに豊かではない種類のことに過ぎないのではないか。
と、さっき思ったのではなく、ただ単に自分が好んでいるというようなことが、なにかちっぽけなことだと思ったのだが、しかし、誰か知り合いの人と話していて、私が好きな音楽が嫌いだといわれたり、よくわからないと思われた感じがしたら、ひどくへこむ感じがするなあ。
私はいったい何を考えたいのか。
ともかく、常識的なものとは違った音楽のあり方があったし、あるし、ありうるということに対してなるべく開かれていたいということが好みといえば好みであり、もはや好みというよりは好みが定まらないという方向の話のようだが・・・。


ということで、つまりは古典、クラシックなど規範的なものを金科玉条としてありがたいとすることは、嫌い、だが、どっこい、一時はバカにしていたハイドンすら、無視できないどころか、逆に底知れない恐ろしさすら感じる・・・しかしそれはハイドンに対してなのか、その様式の激変に、つまりはその時代に対してなのか、もちろん両方であるけれど、さらには人間というものに対してであり、嫌いとか好きとか言っていられないというのは・・・。
古典、クラシック的なものと、ブルース的なものは、相容れない要素があり、機能的和声法と、旋法や、さらにもっと違った和声と旋律の構造(というような言葉では言い切れないはずなのだが、便宜上)が、人類史、地球各地において多様だった各文化の下ではとんでもなく多様で、それをとんでもなく、と言うのには逆に現代の流行音楽といわれるものなどが、思いの外古典、クラシックの延長上にあり、その規範外の原理をある程度柔軟に取り入れつつも、ある意味では規範の応用と解釈していくなど、古典原理の支配下に置かれてしまっているというために、それに慣れた耳からは、極めて多様だと言うことになるという、なんだこの書き方は。


ここで気がつくのは、これほど広汎に、人類の間に拡がった共通感覚は存在しないのではないか、ということの、驚きだ。現在のそういった音楽が現在のような形を取っている契機は、まずギリシャ、そして、より大きな意味で、バロックから古典期の音楽原語のめざましい開発が・・・。
というようなことが、社会の状況(という言葉でいいかどうかわからない)と思いの外、あるいはそれを思いの外と思うことがそもそも何か転倒した考え方なのかもしれないがそれは留保しておき、深く関わっている。
というのが上記の2冊の本を読んで感じたことの正体かもしれないが、わからない。とにかく何か書かなきゃいけないと思い、就職先を探すのをそっちのけでのこのこ、こんなものを書いているのだ。
しかし、この2冊とも、特に「西洋音楽史」のほうに私が知りたかったこと、こうなんじゃないかと思っていたことが何か見事にパッケージされて書かれていて、ありがたかったのだけれど、作品評価や表現活動に対するスタンスに違和感があるのか、ちょっとヤな感じはした。自分の無知を思い知ることが不快だったのかもしれないが。


そして、思いの外大きいのが、平均率と楽譜の問題。さらに、現在の録音再生装置と放送環境、ということにもなると思う。
ここに「平均率」の問題が入ってきていることは、ちょっと異質だと感じられるとは思うものの、音楽の構造にも関わり、音楽を聴く者の耳から脳の働きにも関係があるかもしれず、案外根源的な問題かもしれないと感じたのだけれど、それは上記2冊の本の間に読んだ、「響きの考古学」という本のためだ。この本は作曲家の藤枝守さんという方が書いたもの。
「シート・ミュージック」、ラグタイムティン・パン・アレー、というキーワードをとりあえず書いておきたいが、書くだけ。
それにしても、インターネットのみならず様々な情報、表現、史料へのアクセスが容易になっているために、現在、あるいは将来的には、古典和声法の平均率を前提とした展開をスタンダードとする現在の世界の音楽状況に疑問を突きつける表現へのアクセスが今まで以上に極めて容易になっているし、さらになっていくのであり、あるいはクラシック延長上音楽への標準化(バークリーがその中心であるというのが、菊池成孔の本を読んだ私の)のほうも進むかもしれないものの、そんな言葉ではとらえられない状況把握が求められるということになるかもしれないが・・・。


こんなことを考えようが、考えまいが、何をするか、であって。
こんなことが商工業国の片隅で集まってマンドリンを弾いたりすることと、どう関係があるのかわからないものの・・・。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

音楽のヨーロッパ史 (講談社現代新書)

音楽のヨーロッパ史 (講談社現代新書)

響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)

響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)