私は誰だ 7

正常にコミュニケーションが成り立つには、安定した自己同士である必要があると考えるべきなのだろうか。しかし不安定になった場合にはどうしたらいいのだろうか。その場合でも、不安定になっているある人に対してそれなりに安定したイメージを持つことが出来、さらにどのように不安定になっているかのイメージもつかむことが出来ればいいのかもしれないが、不安定な人はなにかしら明確に不安定である自己像を表現し、とらえてもらわなければならないのだろうか。
と、いうように考えることに意味があるかどうか。


なにかしらもっともらしいことに対する懐疑がある。
もちろんあからさまな言葉の反復、ネットにおける愛国心論議、などというもっともらしくもない言葉にふりまわされるという、もっと次元の低い話しもある。保守を標榜する者が信用ならないのは、おかしな言辞をまきちらす、同じように保守的であることを標榜しているひとたちを放置していることだ。あきらかな暴言、なんらかの抑圧の反動なのだと思うのだが、一時期の左翼的な言辞の流行を抑圧的に感じたことの反動なのだろうか。集団的な、ヒステリー? いまさらヒステリーというような言葉をつかうのも、死語をつかうようなことになってしまうのだろうけれど。
しかし、そんなことが例えばネットのブログであったり、ミクシィのような空間で飛び交う言葉のかなりの割合を占めてしまう事、ある種絶望的な気持ちになる。古くからこのようなことを人間たちは繰り返してきたようでもあるが。
しかしまた、それらの言葉は日常生活にはあからさまには存在しない、何か奇妙な風景だ。実際には、日常のなかに口から発する言葉として空気をふるわせた途端に、灰になって崩れ去るような言葉。
とはいえ私のこのような言葉も同じようなものだろうか。似たようなことを知人と話すことはあるものの、いささか自信はない。
などと考えて逆に、日常生活というものの豊かさなんていうことを考えたのだが、はたしてそれをこのように言葉にしたところで、それはほんとうに日常と関係があるのかどうか、言葉の恐ろしさ。


私を取り巻く世界の奇妙さ、世界といっても直接に私の目に入り、耳に入ってくる事象たちからおしはかっているだけのものだが。その世界における人間たちの奇妙なふるまい。反転してこれらを奇妙だと思うひとりの人間を照らしてみる。奇妙だと思うことそのものがその人間にとってある種の危機だと考えるべきで、何にしても世界はこのようにしてあるのだ、とか。
そんなときに自然ということを考えはするものの、人間と対立するものとしてとらえるわけではない。が、ある種の奇妙な人間的なふるまいを取り除いた自然というイメージ。いずれにしろ、大きな影響を与えているようであっても、やはり人間は自然のなかの小さな要素でしか、ない、とか・・・。
で、私はその奇妙な人間的ふるまいを自分の中から取り除きたいのか。で、それがまた奇妙な人間的振る舞いのひとつであると。


もっと、とるにたらないような、偶然の出来事、普遍的な原理とかではなく、個別的な、特殊な状況の積み重ね、その輝き・・・何を書いているんだか。