彫刻制作とかマンドリン演奏とか2

と、いうタイトルにはしたが、彫刻よりの話しだ。最初は、彫刻をつくるというタイトルにしようと思った。全然つくってはいないが。ただ、今までよりつくろうかという気持ちが強くなってはいる。なにかスノコ状のものをつくろうというアイデアがふとうかんだが、しかし、さて、どうなることか。


デタラメにやってきてしまったと思い、それを今まで考えなかったことの方が不思議に感じた。そして、彫刻とはいうものの、実際には何をつくろうとしていたのか少しわからなくなってきてもいる。音楽も、そうだ。なぜうたがいもなくやってきたのか、ちょっと不思議になる。なぜそう思ってきたのか、そもそもはなぜそう思い始めたのだったか。
まるで当然のように20年余も彫刻をつくろうとしつづけていた、これが私の属している社会ではあまり普通のことではないことは、知っていた。才能があるというのは、別に思い上がりというわけではなく、彫像のようなものをつくることが出来る人がそんなにいないというようなカタチで、知っていた。特別といえば特別だし、そうではないといえばそうでもない。問題は社会のなかで私の志向を生かし続けていくことに意味があるかというようなことで、たとえば作家として立たねばならぬ、などということから考えたりさえしなければ、やったほうがいいことだとは思っていた。
そりゃそうか。


そうなのだけれど、しかし私は一体何をしてきたのか、という感じがしてきた。
具体的には、カタチが浮かび、ある程度は材質も浮かぶことがあるが、いったいその浮かんだカタチとは、何だったのか、ずいぶんデタラメに、ふいに、とは言っても何かに刺激されて、そう言っても何かを感じ取って感情が動いたというように感覚的であるばかりではなく、感覚的ではあっても何か文化的背景があったり、あるいは抽象的な文章を読んでいて感覚が呼び覚まされたりしたことがきっかけであったこともあった。しかし、そのきっかけとの直接的な関連性は、ほとんどといっていいほど認められない。
夢の作用というものはなかなか面白いものであって、覚醒時に論理的に妥当な感じの流れで思考の断片が結びつけられて生まれるひとつながりの思考、とはよりちがった、飛躍的な結びつきを行うことで記憶の整理、ある意味では思考の整理までも行われているのではないか。そうすることで逆に整合性がたもたれている部分があるのではないか、と、ふと思ったのだけれど、それはある程度のまとまりのロジックではとうてい矛盾に満ちた現実世界と折り合いを付けられないのではないか、などと思ったのだけれど、作品のカタチが思い浮かぶというのは、覚醒時の通常の思考にくらべると、より夢の様式に近いのかも知れないと思った。
とはいえ、覚醒時においても無意識の働きは言語化されている表層よりも大きいような気もしてきたのであって、そういうことはすべての人にあてはまる。しかし何らかのかたちで表出され、「外から」可視化するときにその部分に関して整合性をもとめられるだろうというようなことで、その可視化された状態をあらかじめ想定し、整合性をもたせようという、そんなことが常に、覚醒時には行われているのだろう。


と、いうときに、芸術などという言葉が浮かんでしまったのだけれど、これは無意識に近く、つまりは飛躍しているというように客観的にはとらえられやすい感覚と思考の結びつきの一連の流れが、外から可視化できる状況で展開される状態なのではないか、そんなものが芸術というひとまとまりの営みの特殊性なのではないか、と、思った。


そうか?


そうだとして、そうするとデタラメに近いということは場合によっては必須条件ではないかとは思ったのだが、それはやはり何かデタラメな感じがする。


あるいは、社会、その芸術的な状況の置かれる社会、または環境が、現在の人間の生体的なはたらきのうちの思考作用の飛躍的なものも実際は多く含んでいる実態からくらべて、整合性を求められる状況にあるとき、飛躍がすくないことでより大きな矛盾を生じさせるとき、その世界に必要な飛躍を生じさせる働きが、芸術といわれるような表現が生じる原動力になっているのかも知れない。



で・・・今回はここで思考が止まってしまうのだけれど、関連して気になっていたようなことは、音楽が社会的であるということ、美術が音楽にくらべても教育の場面で創造性を強調されること、あとは私自身の制作の過程の試行錯誤の要素のことがさっきからちらちらとうかんでは消えていて、しかし、さっき食べたおそい昼食のために眠気がおそってきた。